2025年6月22日(日) 聖霊降臨節第3主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 209
主の祈り
交読詩編 詩編36:1~10
祈 祷
賛 美 518
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第9章24~41節
子ども説教
説 教 「ただ一つ知っているのは」
賛 美 451
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
ヨハネ福音書第9章の、生まれつき盲人であった人の目を主イエスが癒してくださった出来事の続きです。イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)と語り、この人の目を癒し、視力を回復させてくださいました。そのことに驚いた人々は、ファリサイ派の人々のところに目を癒していただいた人を連れて行き、取調べが始まりました。
本日は、24節から朗読しましたが、目を癒していただいた人が主イエスのことをどう語っているかをたどると、この人の信仰が成長している、あるいは深まっていることが良く分かります。「イエスという方」(ヨハネ9:11)、「あの方は預言者です」(ヨハネ9:17)、「あの方は神のもとから来られた」(33節)、「主よ、信じます」(38節)。ヨハネ福音書第9章は、おそらく一日の出来事であったと思います。この人自身が、この日、イエスと出会い、イエスを主と呼ぶとは、全く予想していなかったことでしょう。イエスがこの人を訪れ、出会ってくださり、信仰へと招いてくださったのでした。目を癒していただいた人は、自分に神の業が現れたと信じ、イエスを主と呼ぶことができました。
この人の場合は一日の出来事でしたが、私たちも、同じような歩みをしたのではないでしょうか。イエスが訪れてくださって、一人ひとりを信仰へと招いてくださったのです。
今年4月、スウェーデン人のゴスペルシンガーのレーナ・マリアさんが来日して、各地でコンサートがありました。2020年に来日の予定でしたが、コロナで中止となっていました。私はコンサートには行けませんでしたが、YouTubeで、今回のコンサートの様子や、プロデューサーの方の証しを観ました。生まれつき両腕がなく、片方の足は長さが半分という身体の障害を持っておられます。ハンディを持ちながら、輝く笑顔と素晴らしい歌声で、神を賛美し、イエス・キリストの愛を証ししています。レーナ・マリアさんは日本では、約30年前、民放のテレビの報道番組で紹介され、それ以来何度も来日して、多くの人に感動と希望を与えています。レーナ・マリアさんがこれまでに47都道府県すべてを訪れてくださったと動画を観て初めて知りました。日本を大切に思って、各地を訪問してくださったことに感動しました。レーナ・マリアさんは、イエス・キリストを主と呼び、神の業が自分にも現われた、という証人です。
ヨハネ福音書第9章では、イエスに「主よ」と、信仰告白ができた盲人と対照的に、目の癒しという神の業を認めようとしないユダヤ人たち・ファリサイ派の人々も描かれています。彼らの姿も、私たちに問いかけるものがあります。彼らはこう言っています。「あの者が〔イエスのこと〕罪ある人間だと知っている」(24節)、「我々はモーセの弟子だ〔つまり律法を守っているということ〕。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが〔つまり、律法を知っているということ〕、あの者がどこから来たのかは知らない」(28~29節)。さらに、目を癒していただいた人のことを「お前は全く罪の中に生まれたのに…」と軽蔑しています(34節)。
主イエスは言われます。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(39節)。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(41節)。イエスが言われる「見える」とは、イエスを信じることです。「見えない」とはイエスを信じないことです。イエスの言葉と業にどう応えるか、私たちも問われています。