2025年7月6日(日) 聖霊降臨節第5主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   16
主の祈り
交読詩編  詩編100篇
祈  祷
賛  美   120
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第10章1~10節
説  教  「主イエスは命の門」
賛  美   402
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 このあたりで暮らしている私たちは、羊飼いとか羊には、あまりなじみがないと思いますが、旧約聖書に登場して、私たちもよく名前を聞く人たちは、羊飼いでした。アブラハム。その子イサク。イサクの子のヤコブ。イスラエルの民をエジプトから導き出した指導者モーセも羊飼いでした。最も有名なイスラエルの王、ダビデも羊飼いでした。ダビデは賛美をたくさん作り、それらが詩編に残されていると言われています。先ほど歌った讃美歌21-120番の歌詞は詩編第23篇で、主なる神は私の羊飼い、私は主の羊、とあります。羊飼いであった旧約聖書の信仰者たちは、羊との羊飼いとの関わりを、自分と神との関係にとても似ていると気づかされ、賛美にしたのではないでしょうか。私たちは聖書の言葉を通して、それを知ることができます。
 ヨハネ福音書第10章に入りました。イエスの時代にも牧羊は日常の光景でした。第10章の中心のメッセージは、主イエスがまことの羊飼いであられることです。羊飼いと羊のイメージを通して、神と私たちとの関係が語られています。イエスは、まず、羊の囲いのたとえを話されました(1~5節)。当時、羊の囲いは人の背丈くらいの高さの石垣でできており、出入り口(門)は一つでした。羊は、夜はそこで守られて過ごします。門番がおり、羊飼いが来ると門を開けて、自分の羊を外に連れ出します。羊は羊飼いの声を知っているのでついていきます。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」のでした(6節)。ファリサイ派の人々は、羊の囲いの話そのものは、彼らの知っていることのなので理解できたでしょうが、イエスが自分たちになぜその話をしているか、分からなかったのでしょう。
 イエスは、はっきりと言われます。「わたしは羊の門である。…わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(7~10節)。主イエスは羊の門であられます。イエスを通って人は救われます。イエスが来られたのは、羊である私たち一人ひとりが、罪を赦され、永遠の命を受けるためです。神の子とされるためです。主イエスは、かけがえのない、ただ一つの命の門なのです。
 旧約聖書の預言者たちも、神の民を羊にたとえ、神から与えられた預言の言葉を民に伝えました。その一つ、エゼキエル書第34章の言葉を読みます。「主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。…わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。…見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す」(エゼキエル34:10~12)。預言者エゼキエルの時代、民の指導者たちが、民を餌食にしていたと告発されています。主なる神はそれを見過ごすことはなさいません。神自ら牧者として、民を養うと宣言しておられます。
 主イエスは、神から遣わされた救い主として、旧約聖書の預言を成就する者として、エゼキエル書の御言葉を心に思って、ヨハネ福音書第10章のお言葉を語られたのではないかと思います。私たちは、イエスの羊として、イエスという羊の命の門を通り、羊飼いであるイエスの声を聞き分け、主イエスに従いましょう。