2025年7月13日(日) 聖霊降臨節第6主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 461
主の祈り
交読詩編 詩編23篇
祈 祷
賛 美 409
日本基督教団信仰告白
聖 書 ヨハネによる福音書第10章7~21節
説 教 「あなたを心にかける主」
賛 美 459
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)
〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕
〔説教要旨〕
本日の聖書箇所で、主イエスがご自分のことを良い羊飼いだと言っておられます。それがヨハネ福音書第10章の中心のメッセージです。
実は、ルカ福音書第15章の冒頭にも、イエスがご自分のことを羊飼いとして語っておられるたとえがあります。本日は、初めに、このルカ福音書のたとえを紹介します。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(ルカ15:4~6)。
私たち一人ひとりは、羊飼いである主イエスの腕の中にしっかり抱かれている羊です。主イエスはあなたをどこまでも捜し、見つけ出し、見つけたら大喜びなさるのです。しかも、その喜びを独り占めするのではなく、パーティーを開いて、皆で喜ぶというのです。私たち一人ひとりは、それほどまでにイエスが喜んでくださるかけがえのない存在なのです。このたとえは、主イエスがお話になっていることが大切です。同様のたとえは、マタイ福音書第18章にもありますが、そこでは「迷い出た羊」となっています。人は、自分の思いのままに生き、神から離れ、神に背き、迷い出てしまっています。たとえでは、その過ちが問われていません。それは、このたとえをお語りになっている主イエスが、私たち人間の罪を負って十字架に死んでくださったからです。ですから、罪をお責めにならないのです。主イエスは羊のために命を捨ててくださる良い羊飼いです(ヨハネ10:11)。
ヨハネ福音書第10章16節にこうあります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。既に洗礼を受けて、聖餐にあずかっている人は、このイエスの言葉に対して「私は囲いに入っている羊。まだ、洗礼を受けていない人が『この囲いに入っていないほかの羊』」とお思いになったと思います。けれども、元はそうではないのです。主イエスが語られた「囲い」とはユダヤ人のことです。イエスご自身もその共同体の一員であられたユダヤ人を指しています。一方、「この囲いに入っていないほかの羊」とは、異邦人のことです。ユダヤ人以外の人々のことです。
このイエスのお言葉はヨハネ福音書第17章のイエスの祈りと響き合います。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17:21)。この主イエスの祈りが聞かれたので、私たちは救われたのです。
本日の聖書箇所で、丁寧に聞かなければならないのは、イエスが「命を捨てる」と繰り返し語っておられることです(17節、18節には2回)。主イエスの十字架の出来事は、一方ではイエスをねたんで殺そうとした人々の企みによってなされたことですが、実は、それさえも用いて、神の救いが果たされた出来事です。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない」(18節)とあります。十字架は仕方なく起こったことでも、人がイエスから命を奪い取ったことでもなかったのです。「わたしが父から受けた掟である」(18節)、つまり、父なる神がお定めになったことです。神の御子、主イエスは、御父を愛しその御意志に従い、自ら主体的に、命を捨てることを引き受けられたのです。