2025年7月20日(日) 聖霊降臨節第7主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 51
主の祈り
交読詩編 詩編34:12~23
祈 祷
賛 美 403
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第10章22~42節
説 教 「主の声を聞き分ける者に」
賛 美 521
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
イエスは、ご自分を捕らえようとするユダヤ人の手から逃れて、ヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在されました。エルサレムのユダヤ人とは違い、そこでは多くの人がイエスを信じました。人々は言いました。「〔洗礼者〕ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」(41節)と。洗礼者ヨハネがイエスについて話したこととは何でしょうか。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。洗礼者ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て、こう言いました。洗礼者ヨハネがイエスを「神の小羊」と証をしたのには旧約聖書の背景があります。イザヤ書第53章に約束されている救い主です。その救い主は、「屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のよう」な方なのです(イザヤ53:7)。洗礼者ヨハネは、聖霊がイエスに降られたのを見て、「約束されていた救い主がついに来られました。皆さん、この方を見てください!」と叫んだのです。ヨハネが証した言葉は、人々の心に蒔かれていました。イエスが来られたとき、人々は洗礼者ヨハネの言葉を思い起こし、イエスを信じることができました。
このようにイエスの言葉を聞いて信じた人々と対比されて描かれているのは、エルサレムのユダヤ人指導者たちです。イエスの善い業を知っていながら、信じようとはしませんでした。
「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」(22節)。「神殿奉献記念祭」とは、シリアの王アンティオコス四世エピファネスの支配から解放された出来事を記念するものです。アンティオコスは、ユダヤ人を弾圧・迫害をし、エルサレムの神殿にゼウス像を置いて拝むように強要しました(紀元前168年)。本当に酷いことです。人々は、ユダ・マカバイウスの指揮のもと武力で抵抗してエルサレムの都を奪い返し、神殿を清め直しました。その後、ハスモン王朝が起こり約100年続きますが、ローマの台頭により、その支配に置かれます。しかし、この解放を記念する神殿奉献記念祭は続けられておりました。それは冬至の頃に行われます。
イエスが、神殿奉献記念祭の頃、エルサレム神殿を訪れておられたとき、ユダヤ人指導者たちがイエスを取り囲んで問いました。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)。ユダ・マカバイウスのような救い主(メシア)が現れて、解放してくれないか、という願いもあったかもしれません。しかし、その願いはあくまでも人間から出たことで、彼らはイエスを信じる思いがありませんでした。
イエスは言われます。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている」(25節)。信仰はイエスの言葉を信じることから始まるのです。イエスは続けて言われます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(27~28節)。イエスの大いなる確かな約束が宣言されました。さらに驚きの言葉が続きます。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」(29~30節)。イエスを信じる者たちを、何にも優って大いなるものである、と言ってくださっています。主イエスは、私たちをそのように見てくださっているのです。イエスの手は父なる神の手であるのです。イエスはその御腕に私たちをしっかりととらえてくださっているのです。