2025年7月27日(日) 聖霊降臨節第8主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   18
主の祈り
交読詩編  詩編149篇
祈  祷
賛  美   58
使徒信条
聖  書   使徒言行録第20章25~38節
説  教  「にもかかわらず信じる」
         〔使徒信条による説教〕
賛  美   390
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 本日は使徒信条の第3部(聖霊への信仰告白の部分)の「聖なる公同の教会(を信じる)」を取り上げますが、今日はまず「教会を信じる」とはどういうことか、聖書の御言葉に耳を傾けたいと思います(「『聖なる公同の』教会」については次回)。
 使徒言行録第20章17節以下は、使徒パウロがエフェソの教会の長老たちを港町ミレトスに呼び寄せて、別れの説教をする出来事です。使徒パウロは何としてもエルサレムへ行かなければならず、エフェソに寄る時間はありませんでした。さらにパウロは、聖霊に示されて殉教するかもしれない、と覚悟していました。そういうわけで、パウロはエフェソの教会の人々に、もう二度と会えない、とはっきり言いました(25節)。ですから、この別れの説教は使徒パウロの遺言といってもよいでしょう。
 まず注目したいのは、28節です。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」。ここに、教会とは何であるかが示されています。三位一体の神が働かれて教会は存在しています。父なる神は御子キリストを世に遣わされ、御子は神の御心に服従して、十字架で血を流して、私たち人間の罪を贖ってくださいました。私たちは救われて、神のもの、キリストのものとなりました。その教会を生かすために、聖霊の神が指導者を任命なさいます。そのようにして、教会は世に置かれ、世にあって使命を果たしていきます。「教会を信じる」とは、教会に働くこの三位一体の神の業を信じることです。
 その後に語られているパウロの言葉は教会の現実、人間の現実を示しています。「残忍な狼どもが入り込む」(29節)とは異なる教えを説く偽教師などが教会に入ってきて惑わし、教会を荒らすということです。また、外からではなく、教会の中からも心変わりをして、邪説を唱え、弟子たちを従わせようとする者が現れるというのです(30節)。人間の弱さ、罪深さをパウロはよく分かっていました。今日の説教題は「にもかかわらず『教会を』信じる」という意味でつけました。地上の教会は今も昔も、パウロの指摘したような過ちを繰り返してきました。それは否定できません。けれども、そこでなお、教会は神のもの、私たち一人ひとりも神のものとされていることを信じ続けるのです。
 パウロは命じます。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(31節)。パウロが教えてきたこととは、「神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスに対する信仰」(使徒20:21)であり、「神の恵みの福音」(同20:24)、「御国」(25節)、「神のご計画」(27節)です。
 パウロは、なぜエフェソの人々に別れを告げることができたのでしょうか。それは、後に続く言葉から分かります。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(32節)。パウロは、教会を神とその言葉とにゆだねることができる、と確信していました。「造り上げる」とは「家を建てる」という意味があります。建物としての教会堂ではなく、信仰の共同体である教会を、建てる、あるいは建て直すということです。神とその恵みの言葉が働いて、神の教会を建て上げ続けてくださいます。そのとき、聖なる者とされた人々が共に、神の恵み(使徒信条で告白している聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命)を受け継がせていただけるのです。この大いなる約束に教会は生きるのです。