2025年8月3日(日) 聖霊降臨節第9主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   561
主の祈り
交読詩編  詩編27:1~6
祈  祷
賛  美   425
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第11章1~16節
説  教  「死が終わりではない」
賛  美   502
幼児祝福式 105
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は幼児祝福式部分をカットしています〕

〔説教要旨〕

 ヨハネ福音書第11章では、主イエスがラザロを死から甦らせた出来事が記されています。とても長いので何回かに分けて説教しますが、ラザロの復活の出来事全体を心に留めていただきたいと思います。
 まず、イエスはラザロを「わたしたちの友」(11節)と呼んでおられることを大切にしたいと思います。ヨハネ福音書において「友」と聞くと、イエスの言葉が思い起こされます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:13~14)。イエスがラザロを「友」と呼ばれるからには、ラザロのために自分の命を捨てるほどの愛で愛しておられるということです。多くの人に愛されている讃美歌21-493番には「いつくしみ深い 友なるイエスは」とあります。神の独り子であられる方が、私たちの友となり、私たちを友と呼んでくださるとは、何と大きな恵みでしょう。イエスに、兄弟ラザロの病気を知らせた姉妹たちの伝言にも「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3節)とあり、5節には「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とあります。私たちは、イエスに友と呼ばれるほどに愛されている者なのです。
恐らく、ラザロが危篤なので、マルタとマリアの姉妹はイエスにいらしていただきたいと願い、メッセージを送りました。それを聞いて、イエスは不思議なことを言われます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子〔イエスご自身〕がそれによって栄光を受けるのである」(4節)。私たちは、家族や友が危篤であると聞いて、このような言葉を語るでしょうか。語らないと思います。イエスは何を思っておられるのでしょう。なぜこうお語りになったのでしょう。イエスの思いと私たち人間の思いは違っているのですが、イエスを信じて生きる私たちは、少しでもイエスの思いを知り、イエスが見つめておられるものを見つめたいと願います。
 ここでは、第11章全体、そしてヨハネ福音書全体を見通して、イエスがお語りになったことを考えてみます。
 「この病気は死で終わるものではない」、とイエスが言われた通り、イエスはラザロを生き返らせてくださいました。その出来事は、ユダヤ人指導者たちにとって恐れを引き起こし、イエスを殺そうと企むに至ります(ヨハネ11:53)。その殺意は、ローマの権力を用いて、イエスを十字架で死刑にするところまでいきます。ですから、ラザロを命へと呼び戻したことによって、イエスは殺されることになります。言い換えれば、ラザロを生かすためにイエスは十字架の上で死なれます。こうして、イエスの十字架の出来事において、神は栄光を現わしてくださいました。ラザロだけでなく、私たち人間が、イエスの死によって生かされ、それにより、神が生きておられること、イエスが神からのキリストであり、神の独り子であられることが最もよく示されたのです。それをヨハネ福音書は神の栄光と語っています。
 ラザロが病気だと聞いてからも、イエスが2日間同じ所に滞在されたのは(6節)、父なる神に祈られたからだと思います。その後、イエスはユダヤに行くことを決意され、弟子たちに言われました。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(14~15節)。「よかった」とまで言われるイエスの言葉に驚きます。ラザロの死を語りながら、弟子たちを信仰へと招いておられます。このイエスにこそ私たちの希望があり、慰めがあります。