2025年8月10日(日) 聖霊降臨節第10主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 204
主の祈り
交読詩編 詩編139:1~10
祈 祷
賛 美 416
日本基督教団信仰告白
聖 書 ヨハネによる福音書第11章17~27節
説 教 「死ぬまで生きる 死んでも生きる」
賛 美 575
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)
〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕
〔説教要旨〕
イエスは弟子たちと共に、マルタとマリアとラザロのきょうだいが暮らしていたベタニアに行かれました。ラザロは死んで葬られ、4日も経っていました(17節)。それは、彼が確実に死んだということを示しています。イエスは村に入らないでいました(ヨハネ11:30)。イエスが来られたという知らせがマルタのところに届くと、彼女はイエスのところに行きました。そして、自分の嘆き、悲しみをイエスに訴えました。「もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。
ここにおられる方々の大半は、愛する者を亡くした経験があると思います。「生きていてほしかった。しかし、死んでしまった」という悲しみは深いものがあります。マルタの悲しみはどれほど深かったでしょうか。さらにマルタはイエスに言います。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(22節)。ラザロが危篤だったので、マルタとマリアはイエスのもとに使いを送り「主よ、あなたの愛しておられる者〔ラザロのこと〕が病気なのです」と知らせました(ヨハネ11:3)。彼女たちはイエスに愛され、イエスを愛していました(ヨハネ11:5)。マルタには、イエスの力によってラザロを生かしていただきたいという思いもあったでしょうし、たとえラザロが死ぬことになっても、イエスの愛の中で息を引き取ることを願っていたのではないでしょうか。しかし、それもかなわず、ラザロは墓に葬られ、4日も経ったとき、イエスは来られたのでした。
イエスがマルタに「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。当時、世の終わりには死者は復活するという信仰がユダヤ人の中にありました。イエスは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(25節)。何と不思議な言葉でしょう。さらに続けて言われます「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(26節)。マルタがどれほどイエスの言葉を信じていたかは分かりませんが、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシア〔キリスト〕であるとわたしは信じております」(27節)と信仰告白しました。これは、イエスは神の子キリストであるという教会の信仰です。私たちもマルタと共に信仰を告白するように、招かれています。
8月8日~9日と、日本基督教団埼玉地区教会全体修養会に参加しました。講師は木村利人先生(早稲田大学名誉教授)で「幸せなら手をたたこう」の作詞者です。この歌が生まれた出来事を語られました。2回目の講演では、法律家の立場から、バイオエシックス(生命倫理)という学問分野を開拓されたお話も伺いました。「いのち:LIFEとは何か?」と問われました。バイオエシックスの基本的な考え方は自己決定(自分の命は自分で決める:命の主体は自分)です。確かに、肉体的な生命活動だけが命ではありません。英語のLIFEにはとても広い意味があります。
聖書では「いのち」は神との関係です(ヨハネ17:3参照)。「わたしは復活であり、命である」とのイエスの言葉には十字架の死が前提にあります。イエスは死んで私たちに命を与え、神の子として生かしてくださいます。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」とは不思議な言葉です。イエスも肉体の死を免れませんでした。ですからこれは、信じる者は死に支配されないということではないでしょうか(使徒2:24参照)。イエスをキリストと信じる者は、今すでに、そして地上の生涯の終わりにおいても、神の命の祝福の支配に生かされるのです。