2025年8月17日(日) 聖霊降臨節第11主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 11
主の祈り
交読詩編 詩編147:1~6
祈 祷
賛 美 54
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第11章28~37節
説 教 「主イエスの涙」
賛 美 531
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
ヨハネ福音書第11章の御言葉に少しずつ耳を傾けています。今日の箇所の直前のところでは、イエスとマルタの、いのちを巡る深い対話がなされました。愛するイエスが来て、復活の希望の言葉を聞き、マルタは信仰を告白しました。弟ラザロを亡くした悲しみの中にも、イエスから慰めをいただき、その思いを妹のマリアにも味わってほしいと思ったのでしょう。イエスもマリアを呼ばれたのでしょう。マルタは家に帰って、マリアにそっと声をかけました。「先生がいらして、あなたをお呼びです」(28節)。
これは、私たちも経験していることです。主イエスと出会い、いのちと愛に満ちた言葉を聞き、慰められ、信仰が強められますと、「この恵みをあの人にも味わってほしい」と思います。「主イエスが来てくださって、あなたを呼んでおられます」と、私たちも声をかけることができます。
マリアは、マルタの言葉を聞くとすぐに立ち上がり、イエスのところに向かいました。イエスは村にはお入りにならないで、マルタが迎えたところにおられました。恐らく姉のマルタも一緒に行ったのでしょう。さらに、当時の葬儀は7日ほど続くということで、儀式のために近隣の者たちが共に過ごしていました。マリアが立ち上がって出ていくのを見て、人々は彼女が墓に泣きに行くと思い、ついて行きました。
マリアがイエスのところに着くと、足元にひれ伏して言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。これは、姉のマルタが言った言葉と同じです。マルタはその後にイエスへの信頼の言葉を続けて言いましたが、マリアは、泣いて声が出なかったのかもしれません。マリアの後からついてきた人々も泣いていました。
「イエスは、彼女〔マリア〕が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」(34節)とあります。主イエスのこのように激しく心動かされているお姿は、福音書のなかであまり見られません。「心に憤りを覚え」は、このあとの38節にも出てきます。主イエスの聖なる憤りです。「興奮して」と訳された言葉と同じ言葉が、ヨハネ福音書で使われ、そこでは「心騒ぐ」と訳されています。有名な「一粒の麦」(ヨハネ12:24)のイメージを語られたあとで、イエスは「今、わたしは心騒ぐ」(ヨハネ12:27)と言われました。弟子のユダの裏切りを予告されたとき「イエスは…心を騒がせ」ました(ヨハネ13:21)。ご自分の十字架の死を前にして心騒がせられたイエスが、弟子たちにはこう言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14:1)。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)。
ヨハネ11章の説教で、ラザロを生かすためにイエスは死なれる、と申しました。イエスは、私たちが心を騒がせることなく、私たちを信仰と平安の内に生かすため、ご自分は心を騒がせられて、死に立ち向かっておられます。
「イエスは涙を流された」(35節)。これは、ポロポロと頬を伝うほどに涙を流して泣くという語です。ほとばしる涙を流された主イエス。この後、ラザロを命に呼び戻されることは、イエスにははっきりと分かっておられました。共にいた人々は、イエスの涙にラザロに対する主イエスの深い愛を見ました。
私たちには、神の独り子である主イエスの思いを分かり切ることはできませんが、イエスは私たちのためにも涙される御方だと信じます。主イエスの涙に神の真実を見ます。