2025年8月24日(日) 聖霊降臨節第12主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 472
主の祈り
交読詩編 詩編119:169~176(タウ)
祈 祷
賛 美 153
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第11章38~44節
説 教 「死者が御子の声を聞く」
賛 美 403
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
ヨハネ福音書第11章の御言葉に少しずつ耳を傾けています。
イエスは、いよいよラザロの墓の前に来られました。今の日本のお墓とは違い、当時の墓は、岩をくりぬくか、あるいは自然にできた洞穴の中に遺体を横たえて、穴を石でふさぐものでした。腐敗していく遺体の臭いを出さないためでした。ですから、「石を取りのけなさい」とイエスが言われたのは、とんでもないことでした。愛する弟のラザロの体が腐り、その臭いを嗅ぐなどとは、姉のマルタにとって耐えがたいことであったと思います。ですから抵抗しました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(39節)。これは「やめてください」という思いではないでしょうか。私たちはマルタの気持ちがよく分かると思います。
そこへイエスの思いがけない言葉が響きます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と(40節)。イエスはマルタにあらかじめ何を言っておられたのでしょうか。「あなたの兄弟〔ラザロ〕は復活する…わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。…」(ヨハネ11:23、25~26)。このイエスの言葉に、マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハネ11:27)と、信仰を告白しました。ですからイエスは「あなたが『信じる』と言った信仰は、私が『石を取りのけよ』と言ったら萎えてしまうのか。そうではないだろう!」とマルタを叱責しながらも、信仰へと招いておられます。
イエスは、私たちの不信仰に忍耐の限りを尽くしておられます。イエスの言葉を聞いたはずなのに忘れて、自分の考えが先に立ってしまう私たちに、「あなたに言っておいたではないか」と語り、御言葉を思い出させてくださいます。今、私たちはイエスから直接耳で聞くことはできませんが、聖書を通して、説教を通して、讃美歌を通して、いろいろな出来事を通して、「言っておいたではないか」と招いてくださいます。
マルタはイエスの言葉を受け入れたので、人々はラザロの墓から石を取りのけました。イエスは墓の前で父なる神に祈られました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」(41~42節)。イエスは「ラザロを復活させてください」とは祈っておられません。それはベタニアにおいでになる前に、お決めになっていたからです。「わたしは彼〔ラザロ〕を起こしに行く〔復活させる〕」(ヨハネ11:11)。イエスが父なる神に向かって祈ることで、ご自分が父から遣わされた救い主であることを明らかに示されたのです。そのことを信じるようになるために、人々と弟子たちの前で、ラザロを復活させられました。イエスは大声で叫ばれました。「ラザロ、出て来なさい」(43節)。すると、死んでいた人が、出て来ました(44節)。
44節で「ラザロが」ではなく「死んでいた人が」と言われているのは大切です。「死んでいたが、今は生きている人」ということです。つまりラザロは、イエスによって命に呼び戻された人を代表しています。今日の説教題は、ヨハネ福音書第5章25節から付けました。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」。死んだ者が神の子の声を聞くとは、驚きです。何と不思議なことでしょう。私たちがどんなに呼びかけても、死者は応えてくれません。ですから、「死者が御子の声を聞く」ことは、神の独り子、イエス・キリストの御業なのです。だから私たちも生きることになるのです。