2025年8月31日(日) 聖霊降臨節第13主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 2
主の祈り
交読詩編 詩編65:1~5
祈 祷
賛 美 58
使徒信条
聖 書 エフェソの信徒への手紙第4章1~16節
説 教 「聖なるいのちの共同体」
賛 美 392
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
本日は使徒信条の第3部(聖霊への信仰告白の部分)の「(我は)聖なる公同の教会(を信ず)」の説教です。
「『公同の』教会を信じる」から先にお話します。「公同の」とは、日常生活では使わない語ですし、使徒信条でしか聞いたことがないかもしれません。「公同の教会」を平たくいうと「いつでも、どこでも、教会は同じである」という意味です。ですから、私たちは既に経験しています。
私が20代頃の海外に出かけたときの体験ですが、フィリピンのマニラの郊外の教会の礼拝に出席しました。貧しい地域の教会に、青年たちがたくさんいて、ワーシップソングを歌っていました。また、大学時代の友を訪ねて年末年始カナダのエドモントンに行ったとき、現地の教会堂を借りて、日本語で礼拝している集会に出席したことがあります。
父・子・聖霊の三位一体(さんみいったい)の神を信じる人々の集まりが、教会です。目に見えるところでは、制度も違いますし、教会堂もいろいろです。ですが、使徒信条に「アーメン。信じます」と信仰告白をしている集まりは、教会なのです。
西川口教会は、今年の春75周年記念礼拝をささげ、76年目の歩みをしています。初期のメンバーはもうおりません。メンバーは変わっていきます。けれども、教会は同じです。考えてみれば不思議なことです。どうしてそれが成り立つのでしょう。それは、前回の使徒信条の説教のときお話したように、教会は神のものであるからです。神が教会を支え、担ってくださるからです。神は変わらないお方ですから、神のものである教会はいつでも、どこでも同じなのです。
エフェソの信徒への手紙第4章1節以下には、聖なるいのちの共同体である教会の姿が生き生きと描かれています。冒頭の箇所ですぐ気がつくのは「一つ」という言葉が繰り返されていることです。「体〔信仰共同体である教会のこと〕は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一…」(4~6節)。教会が公同のものであるとは、神が唯一であり、主はお一人であり、聖霊は一つであることに根差します。
今日取り上げるもう一つのことは「『聖なる』教会(を信ず)」です。神が聖なるお方であるから、教会は聖なるものなのです。日本語で「聖なる」と聞くと、清廉潔白で、道徳的に立派な人でなければ教会員になれないのかと思うかもしれませんが、そうではありません。1節にこうあります。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み…」。教会は、聖なる神から招かれた人々です。まず神が先立って、私たちをキリストの救いへと招き入れてくださいました。私たちはそれぞれ、キリストの体である教会の部分とされました。その招きにふさわしく歩むのが私たち・教会です。招きにふさわしい歩みとはどういうことでしょう。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(2~3節)。これは、キリストご自身が模範ですが、私たちがその言葉のとおりに生きられるよう、神の言葉を語る奉仕者を、教会にお立てになりました(11節)。その神の言葉に聴き従うことにより、「聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(12~13節)。聖なるいのちに生かされるのです。