2025年9月14日(日) 聖霊降臨節第15主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 51
主の祈り
交読詩編 詩編106:1~5
祈 祷 (含・敬老祝福の祈り)
賛 美 484
日本基督教団信仰告白
聖 書 ヨハネによる福音書第12章1~11節
説 教 「注がれた愛の香り」
賛 美 567
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕
〔説教要旨〕
主イエスは、ユダヤの最高法院において謀反を起こしかねない危険人物であると見なされ、逮捕命令が出されていました(ヨハネ11:48、53、57)。イエスはエフライムという町に一時退かれましたが(ヨハネ11:54)、過越祭が近づいて、祭りの六日前、イエスは弟子たちと共に、再び、マルタ、マリア、ラザロのきょうだいの住むベタニアに行かれました。このラザロをイエスは死者の中から復活させてくださったのです。
彼らの家だと思いますが、イエスのために夕食が用意されました。当時の食事は、横になり、左手を下にして、右手で食べものを取って食べたので、集まった人々の頭の方が部屋の中心を向いて、足は外側を向きます。ですから部屋に入ると、横になって食事をしている人の足が目につくでしょう。その食事のとき、マリアが、イエスの足にナルドの香油を塗り、自分の髪でイエスの足をぬぐいました。「1リトラ」とは約300グラム余りです。部屋だけでなく、家が香油の香りで満ちました(3節)。それは純粋で非常に高価な香油でした。イエスの弟子ユダの言葉から300デナリオン―1デナリオンは1日分の労働の対価―、つまり1年の収入ほどの価値があったことが分かります。
ユダは言いました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)。しかし、イエスは言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(7節)。
イエスは「わたしの葬りの日のために」と言われました。イエスはこの過越祭で、ご自分が民の救いのために死ぬことになるとご存知でした。イエスは十字架に命を献げられ、墓に葬られます。香油を注がれるというマリアの行いは、イエスの死と葬りを先取りするものでありました。
さらに、ヨハネ福音書第12章において、この後に、イエスがエルサレムに入城される出来事が記されています。子ろばに乗ってこられる平和の王として、イエスはエルサレムに入って行かれます。ところで、ヘブライ語の「メシア」(ギリシア語で「キリスト」)は、もとは「油注がれた者」という意味でした。旧約聖書では、王、祭司、預言者が任職されるとき、その人に油が注がれました。これは神の霊が注がれるしるしです。ですから、王も、祭司も、預言者も「メシア」です。やがて時代が下り、異邦人の支配を受ける中で、イスラエルの人々の中に神が遣わしてくださる救い主を「メシア」として待ち望む信仰が生まれました。イエスがマリアによって油を注がれたこの出来事は、イエスが「メシア」(キリスト)として任命された出来事でもあるのです。ヨハネ福音書の教会の信仰が現れています。
マリアが自覚的に、葬りの準備やメシアの任命をしたわけではないでしょう。マリアはイエスにラザロを復活させてくださった御業への感謝、イエスへの愛があふれ出て、高価なナルドの香油を惜しまず注いだのだと思います。マリアには「あとで」ではなく「今」しなければ、という思いがあったのではないでしょうか。主イエスは「わたしはいつも一緒にいるわけではない」とも言われました(8節)。イエスはただ一度来られ、ただ一度死なれる御方です。
ユダはイエスの言葉も、マリアの行いとそこに込められた愛も理解できませんでした。ユダは貧しい人のために正義が行われることを願っていたのかもしれません。しかし、いつしか「自分が正しい」という思いに囚われてしまったのではないでしょうか。
私たちは、イエスを誰と呼ぶのか、いかなる献げ物をもって自分の信仰を表すのか、問われています。