2025年9月21日(日) 聖霊降臨節第16主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   358
主の祈り
交読詩編  詩編118:19~29
祈  祷   
賛  美   307(2回)
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第12章12~19節
説  教  「見よ、あなたの王」
賛  美   280
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 本日の聖書箇所は、主イエスが過越祭の前にエルサレムに入城された出来事です。そのとき過越祭のためエルサレムに来ていた人々がイエスを出迎えた、とあります(12~13節)。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをして…群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたから」でした(17~18節)。死人をよみがえらせる力のある人です。自分たちのために、ナザレのイエスがその力を振るってくれるのではないか、という期待があったかもしれません。大勢の群衆はイエスを迎えに出て、叫び続けました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」(13節)。群衆が叫んだのは、詩編第118編25~26節です。「ホサナ」とは「どうか主よ、わたしたちに救いを」(詩編118:25)という意味で、ヘブライ語で「ホシアーナー」です。ヨハネ福音書ではヘブライ語をそのまま記しているのです。さらに群衆はイエスを「イスラエルの王」と呼びました。自分たちの状況を変えてくれる英雄としての王を期待していたのかもしれません。
 群衆がご自分を迎えて、叫んでいるとき、「イエスはろばの子を見つけて、お乗りに」なりました(14節)。ヨハネ福音書は続けてこう記しています。「次のように書いてあるとおりである。 『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って』」(14~15節)。これは、旧約聖書のゼカリヤ書第9章9節です。ゼカリヤ書にはこうあります。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」(ゼカリヤ9:9)。猛々しい大きな馬ではなく、子ろばに乗って来る王は、へりくだった方であり、平和の王です。神がこのような王を来たらせてくださるという約束です。イエスは、子ろばに乗って入城することで、この預言を実現する者だと示されたのです。
 こうしてヨハネ福音書第11章の出来事を見ていくと、「イエスとはだれか」ということを証ししていることが分かります。マルタの信仰告白、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハネ11:27)。イエスは神の子、メシア〔キリスト〕です。マルタの妹マリアは、口で信仰告白するのではなく、ナルドの香油を注ぐことによってイエスはメシア(元の意味は「油注がれた者」。キリスト)だと証ししました。エルサレム入城の出来事において、イエスは王であられると、ヨハネ福音書は証ししています。
 イエスは王であられる。では、イエスの王座はどこにあるのでしょう。イエスの王座は十字架なのです。このあとヨハネ第12章24節以下で「一粒の麦」のことをイエスが言われますが、その通り、イエスは一粒の麦として十字架に死んですべての人の救いとなってくださるのです。先ほど詩編118編を開きましたが、22~23節の御言葉も合わせて読みます。「家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと」。教会はこの隅の親石がイエス・キリストだと信じています。神の家を建てる者たちは「これは要らない」とイエスを捨てました。つまりユダヤ当局の人々はイエスを危険人物として捕えて、十字架に追いやりました。イエスを喜んで迎えた群衆は数日後に「十字架につけよ」と言いました。イエスが捕らえられたとき、弟子たちは師であるイエスを捨てました。退けられたイエスと、イエスの十字架の出来事が、私たちのなくてならぬ救いとなりました。これは主の御業です。本当に驚きです。