2025年9月28日(日) 聖霊降臨節第17主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   206
主の祈り
交読詩編  詩編84:1~8
祈  祷   
賛  美   162
使徒信条
聖  書   コリントの信徒への手紙一第11章17~26節
説  教  「恵みに生かされる交わり」
        〔使徒信条による説教〕
賛  美   544
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 使徒信条による説教も、終わりに近づいてきました。本日は使徒信条の第3部(聖霊への信仰告白の部分)の「聖徒の交わり(を信ず)」の説教です。使徒信条はラテン語で書かれています。ラテン語原文の「聖徒の交わり」を直訳すると「聖なるものの交わり」。この「聖なるもの」の「もの」に、「物」あるいは「者」のどちらでも解釈可能です。「交わり」はギリシア語の「コイノーニア」に由来している語で、「同じものに共にあずかる」という意味です。
 先ほど、聖餐(「主の食卓」、「主の晩餐」とも呼ばれる)制定の言葉とその直前の箇所の聖書の言葉を聴きました。これは使徒パウロがコリントの町にある教会に宛てて書かれた手紙の一部です。問題や課題がたくさんあったコリント教会でした。「コリントの信徒への手紙」は、教会の問題に対して、福音に基づく勧めや励ましや戒めに満ちている手紙です。
 初代教会は会堂を持っていませんでしたから、信徒の家に集まって礼拝をし、聖餐をしました。現在の私たちとは異なり、夕食(愛餐)と聖餐を同じときに行っていたようです。そのコリント教会の食事の集まりが、悪い結果を招いているというのです(17節)。教会に仲間割れがあったという報告もパウロの耳に入っていました(18節)。愛餐と聖餐を行う食事のときに、先に来た人が勝手に飲み食いして、お酒に酔っている人もいれば、もう食べ物がなくなってしまって、空腹の人がいるというのです。コリント教会には自由な身分の比較的余裕のある人もいれば、奴隷の人もいたと考えられます。貧しい人は愛餐の集まりに早く来ることが難しかったのでしょう。ですから、パウロは「貧しい人々に恥をかかせようというのですか」と厳しく言っています。それでは、主の食卓にあずかっていても、それを空しくしてしまうことになるのです。そこで、パウロは、主の晩餐の制定の言葉を改めてコリント教会に伝えました。
 パウロはこう語り出しています。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(23節)。「主(イエス)から受けた」と、どうして言ったのでしょう。パウロは、地上を歩まれたナザレのイエスには直接会っていません。復活の主イエスが、パウロ(サウロ)にダマスコ途上で出会い、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と言われました。イエスの言葉から、教会とご自分が一体となっていることが分かります。私たちの聖餐も、いつも生ける主イエスから受けたものであるという信仰で行い、パンと杯をいただくと理解してよいのではないでしょうか。
 「聖なるものに共にあずかる」のが教会です。神の言葉が説教され、聖餐が執行されるところに、教会があります。聖餐制定の言葉にあるとおり、聖餐には主の十字架の出来事が記念されています。私たちは、聖餐にあずかるたびに、キリストの十字架で救われた自分であることを知らされます。イエス・キリストの体(パン)と血(杯)を食することで、キリストの復活のいのちに生かされている信仰を新たにします。こうして、教会はキリストの恵みに共に生かされ続けます。
 コリント教会の食事の集まりは持ち寄りであったようです。献げられた物は、食事のためだけでなく、貧しい人を助けるために用いられました。キリストの恵みをいただいた私たちは、恵みに応えてささげます。恵みに応える教会の姿を、使徒パウロがこう書いています。「・・・兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。・・・喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。・・・」(ローマ12:10、11、15)