2025年10月5日(日) 聖霊降臨節第18主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 18
主の祈り
交読詩編 詩編116:8~19
祈 祷
賛 美 407
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第12章20~26節
説 教 「一粒の麦」
賛 美 510
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)。この聖書の言葉は聞いたことがある人が多いのではないでしょうか。イエスはナザレの出身です。ナザレの町の近くに麦畑が広がっていたのかもしれません。イエスは、麦の粒が蒔かれ、芽を出して、実を結ぶという営みのなかに、神の業を見つめておられました。イエスがこの言葉を弟子たちにお語りになったきっかけは、過越祭のために来ていた何人かのギリシア人が、イエスにお目にかかりたいと願い出たからでした。イエスは、ろばの子に乗って、エルサレムに入城されました。大勢の人がイエスを迎えました。人々がイエスを歓迎したのは、死んだラザロを生き返らせたからです。その評判が異邦人にも伝わったのかもしれません。イエスに会いたいと願ったギリシア人たちは、イエスに直接申し出ず、弟子のフィリポに頼み、フィリポは丁寧なことにアンデレに話して、二人がイエスに、ギリシア人が会いたいと願って来たことを伝えました。
私たちにとっても、フィリポやアンデレのような人がいると思います。親や子、夫や妻、学校で、あるいは書物によって、イエス・キリストを紹介してくれた人がいて、キリストに導かれたのです。
ヨハネ福音書には、イエスがそのギリシア人に会ったかどうか、書いてないので分かりません。しかし「イエスはこうお答えになった」(23節)とありますので、お語りになったことはギリシア人に届けられたと思います。それは、読者である私たちにも聞くべき言葉としてイエスがお語りになっておられるのです。
「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)とイエスは言われました。ついに時が来ました。「人の子」とは旧約聖書では救い主を指しています。イエスは、神からの救い主としてご自分が栄光を受ける時が来たと悟られました。その栄光とは、ご自分が一粒の麦として死なれることによって示されます。イエスが「いやだ。私は変わりたくない。このままでいたい」と言い張ったら、多くの実は結ばれません。イエスが、父なる神の御心に従って命を献げてくださったからこそ、多くの実を結ぶことになるのです。今、礼拝をささげている私たちは、イエスが一粒の麦として死なれたゆえの実りなのです。そのことを信じます。
さらにイエスは続けて言われます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25節)。「自分の命を愛する者」とは、ここでは、先ほど語ったように、神に対して「いやだ。私は変わりたくない。このままでいたい」と言い張る人です。「自分の命を憎む人」とはイエスのように、神の御心に信頼し、従う人です。「永遠の命」とは、体の生命維持活動がいつまでも続くことではなく、ヨハネ福音書においては、神との関係であり、神に愛され、神を愛する、生きた関係に生かされることです(ヨハネ17:3参照)。
「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(26節)。教会の信仰においては、信じることは、主イエスに仕えることであり、従うことです。従うことは信じることです。イエスはインマヌエル(神は我々と共におられる)であられますから、私はよく「神が共にいてくださいますように」と挨拶します。けれども、このイエスの言葉を聞くとき、神が共にいてくださることを願うばかりの自分であったと示されました。イエスに仕え、従うとき、イエスと共にいることになります。その人を神が大切にしてくださるとは、何とありがたいお言葉でしょうか。