2025年10月12日(日) 聖霊降臨節第19主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   205
主の祈り
交読詩編  詩編36:1~10
祈  祷   
賛  美   502
日本基督教団信仰告白
聖  書   ヨハネによる福音書第12章27~43節
子ども説教
説  教  「主の光の中を歩もう」
賛  美   509
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声では聖餐部分をカットしています〕

〔説教要旨〕

 マタイ・マルコ・ルカ福音書では、イエスがエルサレムに入城されてから、数日の間、神殿で祭司長や律法学者たちと論争したり、弟子たちに教えを述べたりして、イエスは人々の前に姿を見せておられます。しかしヨハネ福音書では、イエスがエルサレムに入られてから(ヨハネ12:12~19)、人々の前に姿を見せて対話されるのは第12章の終わりまでです。その後は、愛する弟子たちだけと過ごし、別れの食事をなさり、告別の説教をされ、執り成しの祈りをささげてくださいます(第13章~第17章)。そのヨハネ福音書らしさを大切にしたいと思います。
 ですから、ヨハネ福音書にはいわゆる「ゲツセマネの祈り」はありません。しかし、それに匹敵するイエスの言葉があります。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(27節)。十字架の出来事が近づいています。その十字架を前に、神の独り子であられる御方が、心を騒がせずにはおられなかったのです。「私を救ってください」という祈りがあったのです。けれども、父の御心に服従なさったのです。罪人である私たちには、神による罪の裁きがいかなるものであるか、計り知れません。私たち人間のために、裁きを代わって受けてくださるイエスの苦悩も計り知れません。ただ、この言葉の中に、イエスの苦しみが吐露されたということ、苦闘の祈りの姿を垣間見させられるのです。
 イエスは言われます。「父よ、御名の栄光を現してください」(28節)。すると、天から声が聞こえました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(29節)。天の父が御子に応えてくださいました。聖書では「天が開ける」とは終わりのときの出来事です。神の裁きのときです。神は、私たちを救うため、神の独り子を世に遣わされ、御子イエスは、父の御心を果たそうとしておられます。御父と御子の愛の交わりの対話でした。
 神が成し遂げようとしておられる救いを全く知らないので、人々は「雷が鳴った」とか「天使がこの人に話しかけたのだ」と言いました(29節)。イエスは言われます。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(30~32節)。イエスの十字架は、この世の支配者である悪魔(サタン)が追放される神の御業です。私たちは悪の支配から救われて、十字架に上げられた主イエス、天に上げられた主イエスの御腕の中に引き寄せられているのです。そのことを信じる人は幸いです。イエスの言葉を理解できなかった人々に、イエスは言われました。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(35~36節)。イエスは光の主です。イエスの言葉は命の光の言葉です。イエスの御腕の中にいる自分に気がついた人は、光の子とされています。私たちを命の光の支配に入れてくださるため、イエスは十字架に向かってくださるのです。イエスは、神の言葉を語り、多くのしるしを行いましたが、皆が信じたわけではありませんでした(37節)。不信仰については、イザヤが既に預言していたと、ヨハネ福音書は語ります(38~41節)。かたくなな人の心も、神の救いを見ようともせず、立ち帰らないことも、神は御存じです。今こうして私たちがイエスを信じているのは、ただ、神の憐れみ、聖霊の助けによります。その愛に応えて、主の光の中を歩むのです。