2025年10月19日(日) 聖霊降臨節第20主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 17
主の祈り
交読詩編 詩編149篇
祈 祷
賛 美 192
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第12章44~50節
子ども説教
説 教 「父の命令は永遠の命」
賛 美 390
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
本日の説教題は、「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」(50節)という主イエスのお言葉から付けました。「命令」と訳された語は、ヨハネ福音書第13章34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。・・・」の「掟」と同じ語です。以前、西川口教会にいらしてくださった山浦玄嗣(やまうら・はるつぐ)先生は、「永遠の命」を「いつも、いつでも、いつまでも、明るく生き生きと生きること」と言ってくださいました。これは「ボジティブ・シンキング」(プラス思考)などということではありません。神につくられた本来の姿のことです。
神は天地を創造されたとき、「極めて良かった」(創世記1:31)と言われました。それは、すべてが祝福に満ち、調和があり、お互いに生かし合っている世界でした。人はそのように、神に良きものとして造られたのに、神に背き、神を知らず、自分の心のままに生きて、神から遠く離れてしまいました。その私たちに主イエスは言われます。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(46節)。
ヨハネ福音書第1章の御言葉を思い起こします。「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:4~5)。他の訳では「闇は光に勝たなかった」とあります。直訳は「闇は光を捕らえなかった」です。神のそのものである言(ことば)とはキリストであり、その光は命の光であり、その光はすべての人を照らしています(ヨハネ1:9)。どうして暗闇が存在しているのか、私には分かりませんし、明快に説明することはできません。ただ事実として、暗闇、つまり、罪と死と悪の力はこの世に存在しており、私たちを捕らえようとしていることは確かです。
イエスは大きな声で叫んで言われました。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」(44節)。イエスを信じるとは、イエスを遣わされた父なる神を信じることです。「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(45節)。これは、肉体の目で見ることではなく、霊の目が開かれるということです。「見る」を「受け入れる」と言い換えても良いと思います。イエスを受け入れる人は、イエスを遣わされた父なる神を受け入れるのです。
イエスはだれに向かって叫ばれたのでしょうか。今日の箇所の直前に「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」(ヨハネ12:43)とあります。これは、文脈ではユダヤ人ですけれども、彼らだけではありません。神に喜ばれるよりも、人をあるいは自分を喜ばせる人々に向かって語られたのです。それは私たちのことです。卑怯であり、臆病であり、人を恐れる私たち。そのような弱い、罪深い私たちのために、イエスは言ってくださるのです。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(47節)。その救いはどのようにして果たされたのでしょう。私たちを救うため、イエスが、ひととき、暗闇に飲み込まれてしまわれました。闇の勢力にご自分を委ね、十字架に架けられました。イエスは死なれましたが、三日目に復活させられました。イエスの命の光とは、死に打ち勝った復活の命の光です。ヨハネ福音書全体は、イエスの復活の勝利の光に貫かれているのです。
私たちは、主イエスを信じるまで暗闇の中にとどまっていました。イエスの光によって闇の中にいたことを知り、イエスを信じ、暗闇から救われました。死に勝利したイエスの命が私たちの内に輝いています。私たちはその光を輝かせて生きるのです。