2025年11月2日(日) 降誕前第8主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   493
主の祈り
交読詩編  詩編23篇
祈  祷   
賛  美   385
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第13章1~11節
子ども説教
説  教  「最後まで愛し抜かれた」
賛  美   487
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 過越祭が近づいたときのことです。イエスは夕食の席で、弟子たちが驚くことをなさいました。弟子たち一人ひとりの足をイエスが洗ってくださったのです。当時、足を洗うのは奴隷の仕事でした。ですから、師であるイエスがそれをなさるとは、弟子たちには大きな驚きでした。ルカ福音書を見ますと、弟子たちの間では、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、と議論していたことが分かります(ルカ22:24)。ですから、弟子たちは、他の弟子の足を洗うとは思いもしなかったことでしょう。そのような弟子たちの足を、イエスは洗ってくださったのです。
 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。ヨハネ福音書記者がこう書いているのは、これから起こることすべてが、イエスの弟子たちへの愛の行いであるということ。弟子たちの足を洗ってくださったことも、愛の現われでした。その愛は、極みまでの愛、これ以上ないほどの愛でした。「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」(3節)、食事の席から立ちあがって、弟子たちの足を洗い始められました。弟子の足を洗ってくださったとは、父なる神がイエスにゆだねられた罪の赦しのしるしです。足を洗い清めるように、イエスは私たちの罪を取り除いてくださるのです。
 シモン・ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言いました(6節)。イエスは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました(7節)。ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました(8節)。私たちはペトロの気持ちがよく分かります。「先生に足を洗っていただくなどとは、とんでもない。私の方があなたの足を洗うべきです」という思いだったでしょう。しかし、イエスはこうお答えになりました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)。まことに驚きではないでしょうか。ペトロがイエスに足を差し出して洗っていただかなければ、イエスとペトロとの関わりはなくなる、ということです。イエスと私たち一人ひとりの関係は、私たちから始まるのではありません。イエスが私たちの足を洗っていただくことで始まるのです。イエスはやがて、この夕食の席でこう言われます「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。イエスが選んでくださって、私たちはイエスの弟子とならせていただいたのです。
 本日の聖書箇所では、弟子の一人であるイスカリオテのユダの裏切りが書かれていますが(2、11節)、イエスはユダの足も洗ってくださいました。ユダもこの上ない愛で愛されています。ユダには立ち帰る機会があったはずです。
 本日は、召天者記念礼拝です。既に地上の生涯を終えた愛する方々も、イエスに足を洗っていただいた一人ひとりです。今、私たちがこうして献げている礼拝も、イエスに足を洗っていただき、イエスとの関係が始まっていることで、成り立っているのです。イエスが足を洗ってくださった意味が、そのときには、ペトロには分かりませんでしたが、後で分かりました。この「後で」とは時間が経つというよりも、イエスの十字架、復活、聖霊降臨の出来事の後で、という意味です。私たちの愛する家族が、なぜあのとき召されたのか分かりません。ただ、十字架で死んで復活された主イエスの愛の中で生き、愛の中で息を引き取ったことを信じます。主の導きの中で、後で分かる、と信じます。