2025年11月9日(日) 降誕前第7主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   18
主の祈り
交読詩編  詩編17:1~5
祈  祷   
賛  美   58
日本基督教団信仰告白
聖  書   ヨハネによる福音書第13章12~20節
子ども説教
説  教  「イエスは愛の模範」
賛  美   438
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声では聖餐部分をカットしています〕

〔説教要旨〕

 過越祭が近づいたころ、夕食の席で、イエスは弟子たち一人ひとりの足を洗ってくださいました。弟子たちの足を洗い終えると、イエスは食事の席に着いて、言われました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(14~15節)。弟子たちにとって、イエスが師であるとは当然かもしれません。私たちはどうでしょう。私はリズム体操とゴスペルを習っています。参加者は先生の真似をします。すべてそこから始まります。先生の動きをよく見て、声をよく聞いて、真似をするのです。イエスは「私をお手本としなさい」と言われたのです。主イエスの真似をするのです。
 イエスが弟子たちの足を洗ってくださったことには、深い意味が込められています。それは、これからご自分が弟子たちのために、すべての人のために命を献げて、すべての人の罪を取り去り、神の子として生かすため、主イエスの愛の業でした。このことは神の独り子であるイエスが成し遂げられる救いです。
 けれども、別の見方もできます。足を洗うことは食事の席にいた弟子たちの誰もができることでした。難しいことではなかったのです。足を洗うことは奴隷の仕事であったので、誰がいちばん偉いかと議論をしていた弟子たちは(ルカ22:24参照)、全員が、他の人の足を洗うという思いになりませんでした。そこへイエスが足を洗ってくださったのですから、大変な驚きだったわけです。イエスが僕(しもべ)となられたからです。
 そうすると、私たちがイエスの真似をするとは、行いだけではなく、心がどこを向いているかが、問われます。イエスの御心を知らなくてはなりません。
 イエスは続けて言われます。「はっきり言っておく。僕(しもべ)は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(16~17節)。弟子たちは主(あるじ)であるイエスに遣わされた者にすぎません。そのことを理解し、イエスをお手本として生きるところに、まことの幸せがあるとイエスは約束してくださいました。それは、互いに足を洗い合う、愛の共同体です。私たちの足元にひざまずいて、足を洗ってくださった主イエスの愛で、互いに足を洗い合うイエスの弟子の共同体です。できないことを求めておられるのではありません。イエスによって可能なのです。
 私たちは皆、幸せに生きたい。誰も苦しみたいとは思わないでしょう。聖書は、この世の中が示す幸せではなく、イエスをお手本として生きる道に幸いがある、と語ります。イエスに愛されて生き、イエスの愛に応えて、互いに愛し合う生き方です。そこには、愛があり平和があります。人が皆そのように生きたら、まことに地上に平和が到来することでしょう。
 神からの幸いに生かすために、イエスは十字架に向かわなければなりませんでした。それは旧約聖書に預言されていたことの成就でした。「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない」(17節)。これは詩編41編10節の引用です。「わたしのパンを食べている」とは一緒に食事をするほど親しい間柄ということです。その親しい人々から裏切られ、捨てられる。それが神のご計画であり、イエスは人の罪を引き受けて、十字架に赴かれます。「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためであり」(19節)。イエスが神から来られた神の独り子であると信じるためです。