2025年11月16日(日) 降誕前第6主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   543
主の祈り
交読詩編  詩編133篇
祈  祷   
賛  美   51
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第13章21~35節
子ども説教
説  教  「互いに愛し合う」
賛  美   486
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。この言葉を2025年の教会の御言葉として歩んできました。日本に最初に福音を届けてくれたのはカトリック教会の宣教師です。フランシスコ・サビエルはよく知られています。宣教師は、神の愛を日本人に伝えるため、「愛」を「御大切」と訳しました。「互いに愛し合う」を「お互いを大切にする」と言えば、現代日本でも通じると思いますが、イエスは「新しい掟」として語っておられます。その新しさはどこから来るのか。「わたしがあなたがたを愛したように」です。つまり「イエスが愛してくださったように」。それはどういうことなのか、問われます。
 ヨハネ福音書第13章の冒頭には、イエスが弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」(1節)とあります。今までも弟子たちは愛されていましたが、これからイエスが語られることも、そして、イエスが当局に捕えられ、十字架に命を取られることも、三日目に復活されることも、聖霊を送られることも、すべてイエスの愛の中での出来事です。神の独り子である方が、弟子たちばかりでなく、私たち一人ひとりを愛して、命を献げてくださるのです。ここに、この世にはない新しさがあります。
 イエスの「互いに愛し合いなさい」との命令は、どのような状況で語られたのでしょうか。「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている』」(21節)。「こう話し終えると」は、直前の言葉と理解してよいと思います。「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(ヨハネ13:20)。つまり、イエスが弟子を遣わされ、イエスの弟子を受け入れる人はイエス・キリストを受け入れ、その人は、イエスを送られた父なる神を受け入れたということです。
一方で、昔も今も、主イエスをすぐに受け入れない人がいることを私たちは知っています。しかもここでは、最も親しい弟子がイエスを受け入れず、裏切るというのです。私たちは、心を騒がせられる状況に陥ったときに心が騒ぎますが、イエスでさえ心を騒がせずにはおられなかったとは、人には計り知れないものがあります。極みまで愛した人にイエスは裏切られるのです。しかも、これから成し遂げる救いのため、イエスは裏切られることを引き受けられる。イエスは「『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼(ユダ)に言われた」のでした(27節)。
 私たちは、福音書の読者として、弟子のユダは「裏切り者」と知っていますが、そのとき弟子たちは、ユダが裏切っていることに、全く気がついていませんでした。イエスが裏切りを予告されたとき、ペトロがイエスの隣にいた弟子に合図をして、それが誰かと質問させました。イエスは「パン切れを浸して与える人がその人だ」と言われ、イスカリオテのユダにお与えになりました。それでも弟子たちは気がつきませんでした。ユダは他の弟子たちと何ら変わりなく、会計担当として信頼され、貧しい人への施しをいつもしていたのだと思います(38節参照)。そんなユダでしたが「サタンが彼の中に入った」(27節)。これは、ユダがサタンの働きを許したということでしょう。創世記でカインにかけられた神の言葉を思い出します(創世記4:7参照)。ユダはパン切れを受け取るとすぐ出て行きました。イエスとユダだけが分かったやり取りでした。「夜であった」(30節)。光である方に背を向けた闇を見ます。主イエスの言葉を聴きましょう。「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」(ヨハネ12:35)。