2025年11月23日(日) 降誕前第5主日・収穫感謝日・謝恩日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 386
主の祈り
交読詩編 詩編56篇
祈 祷
賛 美 575
使徒信条
聖 書 ヨハネの手紙一第3章2節
子ども説教
説 教 「体ごと救われる」
〔使徒信条による説教〕
賛 美 573
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(ヨハネ一3:2)。
本日は、使徒信条による説教です。「身体(からだ)のよみがえり(を信ず)」とはどういうことなのでしょう。
聖書は、私たちは神に造られたものである、と語ります。この体も神の作品です。神は土から人をお造りになり、神の命の息を人に吹き入れてくださって、人は生きる者となりました(創世記2:7参照)。
私たちは、体のあるところにいるのです。人の体と心と魂は切り離せません。私たち一人ひとりは、体ごと大切な存在です。
まもなくアドベント(待降節)です。主イエスのご降誕(クリスマス)の御祝いの準備をする時が始まります。私たちのために、神であられる方が人となり、つまり朽ちてしまう体を持って生まれてくださったとは、まことに意味の深い出来事です。
イエスは、私たちの罪を赦すために、十字架に命を献げて、死なれ、葬られ、三日目に復活されました。使徒信条で信仰告白しているとおりです。イエスの復活の出来事は、四つの福音書それぞれの終わりに書かれています。ルカ福音書では、復活のイエスに出会った弟子たちが信じなかったので、イエスは手や足をお見せになり、魚を食べてみせて、ご自分は幽霊などではなく、体ごと復活されたことを示されました。ヨハネ福音書では、イエスは、弟子たちが鍵をかけて閉じこもっていた部屋にもお入りになられました。ですから、復活の体(霊の体)は私たちの生きている時間や空間に捕らわれない体です。
使徒パウロは、主イエス・キリストの復活の意味を次のように語りました。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(コリント一15:20~22)。私たちが、自分自身の体ごと復活する、と信仰告白できるのは、キリストが死者の復活の初穂となられたからです。ここに私たちの希望があります。
パウロはさらに言います。「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」(コリント一15:32)。現代日本社会でも、「どうせ明日は死んでしまう」と考えている人はたくさんいると思います。復活の信仰がなければ、今日を意味あるものとして生きることができなくなります。一方で、現代日本社会には、死後の再会の希望を持っている人もたくさんいます。言い換えれば、死んですべてが無くなるという考えに承服できない、ということではないでしょうか。それならば、「復活を信じたらどうですか。復活を信じればいいではないですか」と、教会は言えると思うのです。同様のことをパウロが使徒言行録で語っています(使徒26:23、27参照)。
復活されたイエスのお体には十字架の傷跡があり、それによって弟子たちはイエスだと信じました。そういう意味で、地上の朽ちていく体と復活の体はつながっています。それぞれの地上の生活における心身の傷の跡が、自分の復活の体にあると思うのです。主イエスが再び来られるとき、体ごと神の栄光に包まれて救われて、霊の体をいただく。その希望を持っています。