2026年3月15日(日) 復活前第3主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 11
主の祈り
交読詩編 詩編65:2~9
祈 祷
賛 美 475
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第18章19~38a節
子ども説教
説 教 「主の声を聞く者は誰か」
賛 美 530
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
イエスは弟子たちと一緒に園に行かれました。そこへユダヤ当局に送られた人々がイエスを捕らえ、大祭司カイアファのしゅうとであるアンナスのもとに連れて行きました。
イエスの弟子のペトロは、アンナスの屋敷の中庭に、名が記されていない弟子と共に来ていました。ペトロは、イエスを案じ、勇気を奮って従って行ったのだと思います。その屋敷の門番の女中はペトロに「あなたもあの人の弟子の一人ではありませんか」と言うと、「違う」と言いました(ヨハネ18:17)。ペトロがなお中庭にとどまっていると、他の人々が「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言い、彼は「違う」と打ち消しました(25節)。さらに別の人が「園であの男〔主イエスのこと〕と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と言いました(26節)。ペトロが打ち消すと、すぐに鶏が鳴きました(27節)。
なぜ「鶏が鳴いた」と書かれているのでしょうか。イエスと弟子たちと夕食のとき、ペトロはイエスに「命を捨てることになっても、あなたに従います」と言いましたが、イエスは彼に「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言う」(ヨハネ13:38)と言いました。このとおりになったのです。
イエスは園でご自分を捕らえに来た人々に、「わたしを捜しているのなら、この人々〔弟子たち〕は去らせなさい」と言われました。「弟子たちは見逃してくれ」ということです。「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」というイエスの祈りが実現するためでした(ヨハネ18:9)。一方ペトロは、イエスが捕らえられるとき、剣で大祭司の手下を傷つけました。その後、大祭司の屋敷まで従って行きました。イエスが「去らせなさい」と守ってくださったのに、ペトロは去らなかった。つまり、イエスの言葉に聞き従わず、逆らったのです。その上、人々に問われると「わたしはあの人の弟子ではない」と三度も言いました。こうしてペトロは、イエスと自分との関係も、自分自身をも否定しました。三度「違う」と言った後に響いた鶏の鳴き声を聞いて、ペトロはようやくイエスの言葉を思い出し、自分のしたことに気づき、徹底的に打ち砕かれたと思います。
ここで大切なことがあります。もしあなたがペトロだったら、こんな恥ずかしく取り返しのつかないことを、他の人に話すでしょうか。ペトロは語りました。なせでしょう。ヨハネ福音書第21章にあるとおり、イエスの赦しを知ったからです。イエスの愛が、自分の罪を覆って余りあることを知ったからです。ペトロは弟子として新しく立ち上がることができました。「こんな私を主イエスは愛して、赦してくださった。だからあなたも大丈夫。イエスを信じてください」と、ペトロが証ししたから、この出来事がすべての福音書に記されているのです。ペトロの弱さは私の弱さ。私はペトロ。ペトロは私。ペトロはすべての人間を代表しているのです。ペトロの過ちは彼自身から出たことで、責任が問われます。それすらも、イエスの大きな御支配のなかにあるのです。
アンナスの尋問に対するイエスの応答から、この裁きは一方的で理不尽なものであることが分かります。その後で、イエスはローマ総督ピラトのもとに連れて行かれます。ピラトとユダヤ当局のやり取りを見ても、そこには「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言って(31節)、自分たちは手を下さず、ローマのもとにイエスを亡き者にしようという、邪悪な企みが示されています。けれども、ヨハネ福音書は「御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」(32節)と続けて語ります。この理不尽な裁きも神のご支配のなかにあるのです。驚くばかりです。