2026年3月22日(日) 復活前第2主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   13
主の祈り
交読詩編  詩編90:1~12
祈  祷   
賛  美   294
使徒信条  
聖  書   ヨハネによる福音書第18章38b~第19章16a節
子ども説教
説  教  「見よ、神の小羊」
賛  美   304
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 ユダヤ当局の人々は、大祭司カイアファのところから、ローマ総督ピラトの官邸に主イエスを連れて行きました。ピラトはローマ総督という立場上、帝国に対する反乱などが起こらないようにすることが肝心でした。しかし、ピラトがイエスに尋問して分かったのは、「何の罪も見いだせない」ことでした。第18章37節と第19章4節と6節において3度言っています。聖書で「3」は完全数であり、本当に確かであるということです。
 この少し前の箇所で、イエスはピラトにこう語っておられます。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」(ヨハネ18:36)。その通り、イエスがローマ帝国に反抗する人だったら、他にも仲間がいてイエスが捕まらないよう守ったでしょう。しかし、実際は、イエスの弟子たちはイエスを見捨てて逃げましたし、イエスご自身は自分を捕らえに来た者たちに、自ら名乗りを上げて、いともたやすく捕えられました。イエスに味方する者はだれもいませんでした。しかも、イエスは恐れることも、おびえることもなく、堂々とピラトに相対しています。
ピラトが「この男に罪を見出せない」と言ったのは、ローマ総督という立場から、「イエスが政治犯ではない」という意味で語っているのですが、ヨハネ福音書の著者は、霊的な意味で、まことに、イエスは何の罪もない御方であることを示しているのです。
 「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し…裁判の席に着かせた」(19章13節)あります。「裁判の席」とは裁く者が本来座る席ですが、ピラトはイエスをそこに着かせたというのです。これは、イエスが人々に裁かれているようでいて、人々を裁く裁き主であるということを示しています。そこでイエスはユダヤ当局の人々やピラトに囲まれており、イエスに聞き従う人はだれ一人いませんが、イエスがそこにおられることによって、周りにいる人々の思いを明らかにしておられることが分かります。神殿に仕えるはずのユダヤ当局の人々が「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」と言ったことは、イエスを十字架にかけるためとはいえ、人の罪はいかに邪悪かが示されます。
 「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」(14節)という言葉も聞き過ごすことはできません。イエスの十字架の出来事が、新しい過越だからです。洗礼者ヨハネはイエスを指して言いました「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)。過越祭の準備とは、過越祭の食事のため小羊が屠(ほふ)られるということです。出エジプト記に過越祭の起源が書かれています。イスラエルの民がエジプトで奴隷であったときのこと。神が、イスラエルの人々に、小羊を屠りその血を家の入口の柱と鴨居に塗るよう、民に命じられました。神が送られる災いの御使いが血を見たならば、イスラエルの家は過ぎ越すのです。小羊の血が塗られていないエジプトの家では人と家畜の初子が撃たれました。それによって、民はエジプトを脱出できたのです。イエスが過越祭の小羊のように犠牲となり、血を流されることで、本来裁かれるべき私たちが裁きを免れます。イエスが、世の罪を取り除く神の小羊となってくださったからです。
 「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した」(16節)。ピラトは、ユダヤ当局の人々に押し切られました。こうして、人々の罪の思いにより、イエスが十字架につけられます。このことも、イエスが「上げられる」こととなる(ヨハネ12:32参照)、神のご計画のなかの出来事なのです。