2026年9月13日(日) 聖霊降臨節第17主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 18
主の祈り
交読詩編 詩編138篇
祈 祷
賛 美 546
日本基督教団信仰告白
聖 書 コリントの信徒への手紙一第6章1~11節
子ども説教
説 教 「神の国と日常生活」
賛 美 522
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
〔礼拝音声では聖餐部分をカットしています〕
〔説教要旨〕
一般的に、教会には善い人や正しい人や立派な人が集っている、と思われているかもしれません。今日の聖書箇所の9節の後半から10節には罪のリストがたくさん上げられ、「このような罪を行う人は神の国を受け継ぐことができません」とあります。そのことについては、信仰のない人であっても同意すると思います。ところが「あなたがたの中にはそのような者もいました」(11節)とあるのです。神に背く罪の中に生きていた多くの人が教会に集められていたのです。
コリントの町は、ギリシャの神(アフロディテ)を祭る神殿があり、神殿で栄えており、神殿娼婦さえおりました。そういう町に生きていた人々が、使徒パウロの伝道によってイエス・キリストの救いを信じて、コリント教会が生まれました。大都市コリントの中で、教会は小さい群であり、コリント教会の人々は、誘惑を絶えず受けていたことでしょう。それは、この国に生きる私たちも似ているかもしれません。
かつては、神に背く罪に生きていた人々が、教会の一員になっているとは、どういうわけでしょう。「しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(11節)。本日の聖書箇所で、使徒パウロが声を大にして伝えたかったのはこれだと思います。「かつて、あなたがたは罪の中にいた。しかし、今は違う! なぜなら、あなたがたは主イエス・キリストの名と神の霊によって洗われたのだから」と。これは洗礼を指していると考えられます。
教会では、父と子と聖霊の御名によって、洗礼を授けます。「名によって」とは、神の権威によってということです。洗礼はただの儀式ではありません。洗礼を受けるとき、神の霊が働いて、イエス・キリストが十字架で流された血によって、罪が洗い清められるのです。洗礼を受けた者は、「聖なる者とされ」ます。神のものとなるということです。さらに「義とされ」ます。罪人の私たちが、正しいと認められ、神と和解して生かされます。
ですから、妙な表現かもしれませんが、罪人でなければ、神を証しすることができないのです。逆説的なのです。イエス・キリストの福音に触れ、自分の罪を深く自覚させられた者こそ、神の正しさを知り、神を証しするのです。「このような私を救ってくださったイエス・キリストの神は生きておられる」と証しするのです。神の大きな赦しがなければ、生きることはできない、と神に信頼し、依り頼み、それを証しするのです。
コリント教会には悩ましい課題がたくさんありました。今日の箇所からは、教会員の間に争いがあり、教会の外で裁いてもらうよう訴え出た人がいたことが分かります。
「聖なる者たちが世を裁く」(2節)とは、教会が世の中の出来事を裁いて回るということではありません。主イエスはこう語られました。「その方〔弁護者・聖霊〕が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハネ16:8)。神の霊によって、神の前における罪、義、裁きは明らかになります。教会はそれを知らせていただきます。世が決して悟ることはできません。教会と世との間には区別が生じます。
「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです…」(7節)とは、不正義を放っておいてよいということではありません。やはり主イエスのお姿を思います。主イエスは私たちを救うために、不義を甘んじて受け、命を奪われました。そのことによって、私たちの罪を負い、罪を贖ってくださいました。そこに私たちに対する神の愛が示されました。使徒パウロの言葉は、互いに愛し合って生きるように、との招きなのです。