私の3.11
宮城県保健環境センター 北村洋子
東北地方太平洋沖地震から2ヶ月近く経とうとしております。現在(4月28日)行方不明者が1万人を超え、避難生活を余儀なくされている方が13万人を超えています。新聞には亡くなられた方々のお名前が連日数十名掲載されており、未だ被害の全貌が正確に把握されていないというのがこの災害の現状です。
宮城県は100万都市杜の都仙台を中心として、海の幸・山の幸に恵まれ、夏は涼しく冬は温暖で、自然災害もあまりなく、とても過ごし易いところのはずでした。しかし、3月11日の震災を境に状況が一変してしまいました。海の幸の宝庫であるはずの海岸線や沿岸漁業が巨大地震と津波で壊滅的な打撃を受けてしまいましたし、おいしい米等を生産していた水田等は海水で作付けが出来なくなっております。
被害や復旧の状況については日々報道されておりますので、ここには「3月11日」を経験した一人として、全く私的な観点からではありますが、記しておきたいと思います。
3月11日14時46分、私は、地下鉄仙台駅のプラットホームで電車を待っていました。わずかな揺れを感じたので、近くの人に「地震ですね。」と挨拶代わりの軽い気持ちで言ったのですが、その後、思いもよらぬほどの強い揺れに襲われ、天井を支えている太い丸い柱はぐらぐら揺れ、エスカレータは止まり、非常灯になり、私自身はエスカレータ脇の壁に寄りかかり立っているのがやっとでした。激しい揺れは永久に続くのかと思われる位長く続きました。後で、激しい揺れは2分50秒ほどでその間に宮城沖地震と同じくらいの強い揺れが2回程あったということを知りました。私は、このいつ収まるとも知れぬ激しい揺れの間、日本がこのまま沈没してしまうのではないかと本気で思いました。揺れが少し収まったところで地上に出、駅前通りの中央分離帯のところで他の大勢の人と一緒に度重なる激しい余震にただ呆然と佇んでおりました。その後、意を決してまだ動いていたバスに乗り、お茶の先生のお宅に向かいました。途中、バスが倒れるのではないかと思えるくらいの激しい揺れに再三襲われました。道路や公園はビルから出てきた人々でいっぱいでした。お茶の先生宅からはすぐ引き返し仙台駅まで歩きましたが、仙台駅は閉鎖されており、駅前のタクシープール付近は人でごったがえしておりました。理由はいろいろあるのでしょうが、いつもJRを利用している人達を、時を置かず駅ビルから吹雪の中に完全に閉め出してしまったJRを、私は冷たいと思いました。その後立ち寄った近くのビルでは、1Fのトイレ前の長蛇の列を見て、地下と2Fのトイレも使用できるように走り回ってくれていた男性の心遣いが感じられました。
十数キロはある多賀城の自宅まで歩く決心がつかぬまま国道45号線を多賀城方面に向かって歩き出していました。しばらく歩いていると、後ろを歩いていた男性二人が「下馬・・、塩釜・・」などと話しているのが聞こえたので咄嗟に、「下馬とか塩釜まで歩かれるのですか?私は多賀城までなので途中までご一緒させて下さい。」と、勝手に道連れを決め込んでしまいました。「日があるうちに家に着きたいなあ。」と言いながら猛スピードで歩いていく彼等に遅れまいと、私も必死について行きました。歩いている間、我が町の30%が水没するくらいの津波が押し寄せていたなどとは全く知りませんでした。信じられないくらいの時間で順調に家の近くまで来たのですが、国道45号線が津波で冠水していたため先に進めず、迂回路を探し、かなりの距離を後戻りしなければなりませんでした。停電で辺りは真っ暗、横殴りの雪が降っており寒く、凍った道路はつるつると滑り、ちゃんと家にたどりつけるのか正直不安になりました。そんな中、天空の星々が異様に綺麗に見えたのが印象的でした。たまたま男性のうちの一人がその辺りの道路や地形に明るかったおかげで、なんとか迂回路が見つかり、約3時間かかって無事我が家にたどり着く事が出来ました。この時ほど、道連れをありがたいと思ったことはありませんでした。後で、あの時、宮城沖地震の時と同じように、地震直後にタクシーを拾い我が家に向かっていたら、国道45号線で間違いなく津波に遭遇してしまったのではないかと思いました。
やっとたどり着いた我が家が、暗闇の中にそのままの形で建っていたのを確認した時は正直ほっとしました。懐中電灯の明かりを頼りに家中を見回しましたが、地震でこれほどまでに家の中がめちゃくちゃになった事は初めてでしたし、地震の時にこの家の中にいたら間違いなく発狂していただろうと思いました。奇跡的に繋がった携帯メイルでその日のうちに家族4人の安否が確認出来たことが何よりの救いでした。
その後の我が家の様子です。停電、断水、電話・携帯不通、JR不通等で全く外界から遮断されてしまいました。プロパンだったおかげで唯一煮炊きは出来ました。翌日は炎上中の石油コンビナートの真っ黒な煙が空を覆っていて、戸外ではとても息苦しく感じられました。2日後の13日には震災後初めて新聞が配達されました。そこには、津波に襲われ町全体が瓦礫と化した女川町の航空写真が掲載されていました。この世のものとは思えぬ光景はとても信じられないものでした。5日目の夕方には電気が復旧しました。蝋燭の明かりを頼りに夕食の準備をしている最中に台所の蛍光灯が点いた時は、思わず歓喜の悲鳴を上げてしまいました。直ちに、携帯電話を充電したり、テレビのスイッチを入れたりしました。そこで、次から次と目に飛び込んで来たのは、津波に襲われる市街地の様子と瓦礫と化した市街地の映像でした。それと家を流され避難所での暮らしを余儀なくされた人々の様子でした。この世のものとは思われぬ何ともつらく切ないものでした。水道が復旧したのは19日後でした。それまで飲用水は仙台市内で地震直後から普通に水道が出ていた知り合い宅からポリタンクに分けてもらいましたし、トイレ用の水は家にある小さな池から汲んでいました。雪が積もった朝は大きなポリ袋に雪をかき集めたりもしました。雨どいからの水も集めましたが、これは真っ黒い沈殿物がいっぱいでした。
地震直後から、ガソリンを求めて連日長蛇の列ができるようになりました。しかも、1回に3千円分くらいしか入れてもらえなかったようです。歩道の上に夜通し並ぶような事態を避けるため整理券を配りはじめるなど、そのシステムも日が経つにつれ洗練されていった様な気がします。我が家は早くからガソリンのために並ぶのを諦めたため、車も動かせなくなってしまいました。ガソリンが普通に手に入るようになったのは、ほぼ1ヶ月後くらいでした。
地震後の私の通勤事情について、書いておきたいと思います。普段なら、家を7時40分に出て、多賀城駅まで歩き、JR仙石線で13分、陸前原ノ町駅から徒歩約20分で職場に着きます。約1時間の通勤時間です。
私が地震後最初に出勤したのは3月16日で6日後でした。その時はまだすべての公共交通機関が止まっており、唯一の交通手段は車か自転車etc.でした。しかも、その頃はガソリンが手に入らず、同僚の多くは1時間以上掛けて自転車で出勤しておりました。ヒッチハイクで出勤していた男性もおりました。私は2日間ほど、隣の市に住んでいる同僚の車に便乗させてもらっての出勤でした。次の週からは曲がりなりにも臨時バスとJRで出勤出来る様になりました。この頃は6時に家を出れば余裕で8時半の登庁時刻に間に合いました。その次の日以降は東北本線が使えました。しかし、4月7日の余震で、再びいっさいのJRが止まってしまいました。家の者に車で送ってもらっても、国道45号線の渋滞に捕まり、9時半に着いたり、車が当てにならない時は、前と同じ6時に家を出ても、多賀城駅で1時間以上後の7時30分の臨時バスにしか乗れず、仙台駅経由でセンターにたどり着いたのが10時だったりしました。日替わりで通勤経路を探る毎日でした。しかし、この問題も、最近やっと部分的に開通した仙石線に多賀城駅から乗ることが出来るようになり解消しました。折しも、同日の朝日新聞で原武史氏が「新幹線優先の復旧でいいのか」の中で記憶と深く結びつくローカル線をまず走らせて日常を回復せよという意見を述べておられました。壊滅的な被害を被った仙石線ですが、1日も早く全面復旧します様に沿線住民と共に切望しております。
話は前後しますが、大震災の2日前にM7.3の大きな地震があり、その時、広島県の大原さんからお見舞いのメイルを頂いたのですが、我々の地震に対する思いを知って頂きたく、以下に私の返信メイルを引用します。ずいぶんのんびりしていたものだと今では思えます。
「今日1日、地震の報道ばっかりのような予感がします。津波はそれほど大きくないにせよ、押し寄せてきているので、1年前のように養殖漁業に被害がないと良いのですが。我々は、今日のような規模の地震があると、震源地が『宮城沖』かどうかが最大の
関心事です。なぜならば、30年周期と言われている『宮城沖地震』から、もうすで
に30数年が過ぎており、あの規模の地震が起きる確率が限りなく100%に近いといわれております。ですから、少しずつでもエネルギーが開放されればと願っているのです。で、ちょっと大きな地震の震源地が『宮城沖』ではないと分かるとみんながっかりするのです。今回も宮城沖とは違う、三陸沖だったようですね。そういえば、30数年前の地震の後には、実験室内の耐震対策を全国から大勢の方が見学に来られました。
建物そのものの耐震工事は、『宮城沖地震』の再来に備えて、何年か前にすませて
おりましたが、それは、宮城沖地震規模の地震が来たときに、建物が崩れる前に人が
避難する時間を確保する程度のものだそうです。いずれにしても、我々(宮城県民)
は何年も前から大地震の恐怖と共に生きているという感じです。」
この後、警告されていた宮城県沖地震を遙かに超えた超巨大地震とそれに伴う巨大津波に見舞われるとは思いもよりませんでした。結局、3月9日の地震は今回の地震の予震の一つだったらしいですね。この時点で来たるべき巨大地震の予震であることが分かっていれば、それに続く巨大津波も予測できたかもしれませんし、そうであれば多少なりとも備えることにより被害を少しでも小さく出来たのではないかと悔やまれます。今回、沿岸部にある県の施設はいずれも壊滅的な被害を被りましたが、宮城県としての唯一の救いは、東北電力の女川原発が正常に”おとなしく”停止している事かもしれません。
地震当時、保健環境センターでは研究発表会が開催されており、ほとんどの職員は大会議室で一同に会しており、速やかに避難出来、幸いな事にけがをした職員はおりませんでした。しかし、保健環境センターの5階建ての建物は壊滅的ダメージを受けました。ロッカーは倒れ、分析機器は床に落ち、壁にはひびが入り、ガラスは割れました。この辺までは、前の「宮城県沖地震」でも見られた風景でしたが、今回は更に酷く、1階のフロアは一目見て明らかに分かるくらい大きく波打っており、外見からも建物全体が芸術的(?)なカーブを描いて湾曲しております。とてもあの建物の中で仕事をする勇気はありません。そして、あの大地震から4週間後の深夜、宮城県沖を震源とするM7.1の、大地震以来の最大の余震があり、津波こそありませんでしたが、ここ、宮城野区では震度6強の揺れで、保健環境センターの建物も更なるダメージを被り、もはや「死に体」です。現在、建物への出入りは厳重に制限されており、3人体制で1回15分、同時にはいれるのは2グループ以下というルールです。宮城沖地震の時は確かに建物の内部はメチャメチャ、ほとんどの分析機器は破損していましたが、それでも片づければ仕事が出来るという希望があり、1ヶ月掛かって何とか業務の再開に漕ぎ着けました。しかし、今回は全くその可能性が絶たれてしまいました。
今後は生活化学部や水環境部と一緒に県産業技術総合センターに間借りしての業務再開を目指しております。我が大気環境部は、大気汚染常時監視局の中央制御を担当している職員と、振動・騒音・悪臭等を担当している職員等と別れ、分析業務担当職員のみが移っての業務再開になります。今まで全環研酸性雨関係で実施していたモニタリングの継続はかなり絶望的です。早く本来の業務に戻れるように祈るばかりです。
今回の災害を経まして、その後の私の行動にも多少変化がありました。まず、どこへ行くにも身分証明書、懐中電灯とラジオを携行しています。通勤にはリックサックを背負いスニーカーという出で立ちです。エレベータや地下鉄には乗りたくないですし、地下道や歩道橋上もあまり歩きたくないです。自宅では2Lのペットボトルが空になると反射的に水を詰めてしまいますし、冷蔵庫や冷凍庫の中が空になると不安になります。何よりも、今年の目標である「断舎離」にますます拍車がかかりそうです。
今回の震災では、私個人に対しましても多くの方々から暖かい励ましのお言葉やらメイルをたくさん御寄せ頂きました。心から感謝申し上げます。今回被災されなかった地方にお住まいの方々には、今後起こるかもしれない災害に対し、システマティックで十分な備えを早急になされます様、切にお願い申し上げます。