(掲載はあいうえお順にさせていただきました。)

 

1.故関口君にからんで大気環境私見:氏家 淳雄

2.関口さんの印象: 大喜多 敏一(元桜美林大学教授)

3.関口さんとの出会い: 大原 真由美(広島県保健環境センター)

4.関口恭一氏を悼んで:押尾 敏夫(千葉県環境研究センター)

5.関口さん、どうぞ安らかに!!:北村 洋子(宮城県保健環境センター)

6.関口さんの思い出: 古明地 哲人(東京都環境科学研究所)

7.酸性雨問題提起のころ---関口恭一さんの思い出: 小山 功(東京都環境学習センター)

8. 関口さんの思い出:田口  圭介(大阪府公害監視セター)

9.関口さん: 谷尾 桂子(京都府保健福祉部)

10.永遠のライバル・関口さん:玉置元則(兵庫県立公害研究所)

11.関口さんの思い出:土屋 哲(北関東地区担当幹事)

12.関口さんのこと: 原 宏(国立公衆衛生院)

13.関口さんへ捧ぐ:平木隆年(兵庫県立公害研究所)

14.関口恭一さんを偲ぶ:福崎紀夫(酸性雨研究センター)

15.日本の酸性雨研究にとって昭和60年の秋とは・・:牧野宏神奈川県環境科学センタ−)

16.関口恭一さんを偲んで:松本光弘(奈良県衛生研究所)

17.関口恭一さんの思い出:村野健太郎(国立環境研究所)

18.関口さんとの出会い:山川 和彦(京都府保健環境研究所)

  


故関口君にからんで大気環境私見:氏家 淳雄

 

 関口恭一君が53歳の若さで、亡くなられたこと残念である。然し、一般的に儀礼的追悼文を奔するつもりはない。

 彼の亡くなる2年前、彼の健康な時に会って、いろいろと話をしたことがあった。すでに大気のことは忘れ、過去の激しい感情を彼から感じ取ることは出来なかった。それと同時に、所長が如何に大切なる存在であることを、改めて思い知らされた。

 私は、衛公研は県に関する衛生、環境問題について、最終判断をする機関で、それぞれについての専門家を育てるべきと思い、そのように部下に接してきた。然し、行政の上司の大部分は、どの部署に転向しても、適当に従事できるよう二、三年毎に移動させるのが良いと思っている。従事出来ると云うことは、検査出来ると云うことではなく、適当に理由づけが出来ると云うことである。

私が所長であった約十年間は、他所に転ずる者は殆んど無く、夫々が専門家を目指して研究していた。従って、衛公研と保健所などでは、確然たる隔差が見られていた。然し、私が衛公研を去ると、時間を挟むことなく、殆んどの人は保健所などに配置され、また、移動する毎に等級が上がるということで、本人達も転向することを好むようになった。今では、衛公研と保健所との隔差はないようである。

どのような理由か、知らないが、関口君も大気から水質に移っている。隔差が無いと云うことは、関口君のような情熱を持っている所員がいなくなったと云うことである。私が去らねば、彼は充分に才能をのばしたろうにと、後ろめたい心残りがある。

彼は、杉(日本杉)の枯れることを主体として、酸性雨の影響を見ていた。杉は松と異なり、根が下の方へ伸びてゆくので、深い土壌が硬くて、湿気が少ないと、樹の高い所まで水分がとどかず、高い先端が枯れ易い。杉の枯枝に烏が止まっている風景は、酸性雨が問題になる以前から、日本画にたびたび見られている。杉を主体とする限り、私は信用していなかった。彼の研究調査が注目されて、公明党の議員七名程度が衛公研を訪れて私の話を聞きに来た。そのとき、私は、「県では最近、頭の毛が薄くなっていることが目立っているが、多分酸性雨のせいでしょうと」とギャグを云った。とにかく、酸性雨と杉の枯れることは関連すると思っていなかった。酸性雨による魚の被害は見られていないが、日本の湖沼にバッファ物資があるためと思われている。樹木もドイツで見られるような被害はない。どのようなバッファが見られるのか不明であるが、とにかく、ドイツとの差は如何なる機序によるのか、心にとめるべきことと思う。

関口君の研究が様々なことを解明したと云うのではなく、酸性雨について、アピールした功は大きいと思う。解明については、研究会の今後に期待している。

 

さて話題を変えたい。

53歳は若いと思っている。

私の場合は一般的でないが、振り返ってみると、60歳までは殆どが狭い範囲での研究であった。即ち、それぞれに、研究や物の見方が各論的であった。総論的に考えられるようになったのが、60歳過ぎてからである。こんな理由から、60歳前は若いと云うべきでしょう。総論的と云うことは、同系統内での他のことに関わりを持って考え、或いは研究することである。即ち、酸性雨を基盤として、大気にかかわる様々な部門との関わりを持つことである。 大気について、系統的にまとまれば、更に、水質について関わりを持ち階段的に場を広げてゆくのが、総論的と言うことである。このような考えから、2つの問題を提起しますから、今後の大きな問題として考えて下さい。

オゾンホールのことですが、生物がある程度増殖してから、地球が経験したことのない現象と思う。極めて大きな問題である。然し、フロン酸についてのみ論じられている。実験室内のことは正しいが、実際に大気、特に、成層圏内でどのように調査されているのか、何となく信じきれない。文科系やジャーナリストが盛んに宣伝しているが、信用出来ない。然し、飛行機、特に大型は成層圏を飛んで、大量のガソリンを消費している。即ち、大量の酸素、オゾンを消費している。しかも調査方法によっては、消費を実測することも出来る。二十一世紀の重要な課題として飛行機公害について調査すべきである。余分なことであるが、煙草を歩きながら喫煙することを最悪であると云う人がいる。特に女の人に多い。それに対する私の答えは「乗用車は1分間に500本の煙草をふかして走っているのだ」。とにかく大を忘れて、小にこだわっている愚を操返してはいけない。フロン酸が小で飛行機公害が大であると思う。 次にCO2増加による温暖化の問題である。数万年前は今よりもCO2が多いのに氷河時代であった。地球の軸変化もあるが、寒暖をくり返して今日に到っている。植物が先行して、O2が多くなるにつれ、動物が出現し、あたかも動物と植物とがバランスをとり合っているようである。昔から植物優勢は変わらないが、ある段階からCO2減少が目立たなくなっている。また、O2に対しCO2の分圧が1/1000であるのに相変わらず植物が優勢に繁茂している。何故であろうか。とにかく、微生物(細菌)による自然界の調節を考えて見ましょう。腸管内には多くの細菌がいる。大きく分けると、O2を消費して増殖する好気性菌と、O2のない状態で増加する嫌気性菌とである。1ツの菌で比較すると好気性菌の活力が嫌気性菌の約10倍ですので嫌気性菌の方が10倍の数で、O2とCO2のバランスをとっている。自然界でも、例えば土壌内でも、同様にO2とCO2のバランスが見られる。動物と植物とでのバランスと微生物間のバランスと比較して、私は微生物間のバランスの方が大きいと思っているが、CO2増加と温暖化の問題で、微生物のことが全然論じられていない。軸変化で温暖化が生じ、そのために好気菌が、より活性化してCO2が増加するような、即ち、温暖化でCO2が増加すると云う逆の機序も考えられる。

 

最近、研究経験のない、文科系のエッセイストやジャーナリズム連が、環境汚染を論じているが、真の論者は研究を重ねている諸君が主として論ずるべきで、諸君に期待することが大であると、自覚して下さい。

 


関 口 さ ん の 印 象:大喜多 敏一(元桜美林大学教授)

  

 関口恭一氏の御逝去の報に接し、まことに残念で、哀悼の念に堪えません。私の国立公害研究所時代、関口氏が群馬県と国公研の間を往復する時、樹木の枯死と酸性雨の関係に思い至ったことを聞きました。それにつき私は光化学オキシダントも考えなければと申し上げました。次回にお会いした時、「私もそう考えるようになりました」といわれました。いずれにしても酸性雨の生態系に与える影響を市民やマスコミに強く印象づけたのは、関口氏の働きによるものだったと思います。

 御冥福をお祈りすると共に、偶然2001年1月よりスタートする東アジア酸性沈着モニタリングネットワークに向けて、研究会員一同がいっそうの努力をすることが、氏の遺志を継ぐことになろうと思います。

 


関 口 さ ん と の 出 会 い:大原 真由美(広島県保健環境センター)

 

 関口さんと初めてお目にかかったのは、昭和58年、第1次酸性雨調査研究(環境庁事業)が始まった環境庁での大会議場であった。当時は現在程酸性雨調査は行われておらず、昭和48年に関東地方で起きた人体被害の原因解明調査を先駆けた人々以外は、本格的な調査を行っている研究者は少なかった。環境庁(今の環境省)主催の本格的な調査である。今は、大気といえば、有害大気汚染物質、PM2.5、ダイオキシンが最重要とされ、酸性雨は肩身の狭い課題となっている。しかし、この年、昭和58年は記念すべき、酸性雨調査の始まりの年であった。第1回会合には、当時第1人者と言われている、研究者が1堂に会し、多くのマスコミ関係者が集まった中で会議が始まった。関口さんとの出会いはそれが、初めだった。第1次の酸性雨調査は7都道府県で実施され、委員は実質のサンプリング、分析、解析を一貫して行った。

 関口さんの当時の印象は、自信に満ち溢れ、体格も堂々たるものだった。5年間、ワーキンググループで一緒に意見を出し合い、検討、実施した。学会でも、いつも、一緒になり、大きな存在であった。関東の杉枯れの発表は衝撃的なものだった。行政の人々は、自分の県だったら、絶対、発表させない、と、口々に語っていたことを、思い出す。当時、行政は、酸性雨のデータが世に出ることにとても敏感で、我々も、学会発表を撤回させられた。最近は情報公開法ができ、公開しなければならない、状況が当たり前になった。しかし、逆に、そうなったが故に、即、解決しないものは、不要、カットという消極的な方向に向かいつつある。環境の場合、1つの原因では説明できないものが多い。今、自治体は、県にどう役立つのか、という基準で全てが決まる。しかし、これは、とても、小さな世界観でしかなく、我々は、地球全体の生態系を考えていく訓練を続けていく必要があると、思う。

 関口さんが、部署を変わられてから、お会いすることは全くなくなってしまった。うわさには、その分野で活躍されている、と、聞いていた。

 ある時、関口さんが、軽井沢に別荘を作る、とか、聞いた。これは、誤った情報で、実際はお店を開いたとの事であった。その開店祝い、にと、お祝いをしたが、そのお返しにいただいたガラスは今も家にある。その時の手紙はとても、悲しいことが書かれていた。自分のやりたい事ができない、悔しさが。

 それから、私は難病に罹っていることがわかり、何度も入院し、お見舞いをいただく側でしかなかった。私自身、命の長さを宣告され、どう生きるかを悩み、他の人の事を考える余裕もなかった。あの、割腹の良い関口さんは、どうしてるかな、元気をもらうために会いたいなあ、とは思っていたが、関東の酸性雨関連の友人と、飲んだりしていることや、国立環境研の調査にも、同行されている旨を聞いていたので、楽しんでいるんだ、としか、思っていなかった。

 ところが、突然、病気だという情報が、飛び込んできた。ええ?と、思いながら、私は人工呼吸器と酸素を使用しながら、生きていたし、ホーキング博士のことを、インターネットで知っていたので、しかも、呼吸については、データ的には、私より、ずっと、良い状況だと、感じていたし、薬だって、私が使用している量より、ずっと、少なかったので、全然、気にしていなかった。が、突然、訃報が飛び込んできた。ええ?なんで?というのが私の感想だった。もう少し、うまく、コントロールできなかったのかなあ、と。関口さんの最後の頃の様子が酸性雨研究会ニュースに書かれていた、奥様の手記によると、大きな世界観が書かれていて、ゆったりした気持ちになられていたのだなあ、と、感じ、ほっとした。それまでの、悩んでいる関口さんではなかった。きっと、奥様と、良い時間を過ごされたのだろう、と、感じた。

 関口さんの杉枯れ発表の功績は、ずっと残るものであり、酸性雨研究の歴史に記載されており、それに続く研究者がたくさん、出て欲しいと、感じる。

 

1983〜1988年に環境庁の第1次酸性雨調査が実施されて以来、18年経った。当時の目標で2001年現在でも解決できていない事がある。現在4次の調査であるが、どう、変わったのであろうか?大気のサンプリングポイントが全く変わった。第2次調査以降の地点と、第1次の調査地点は全く、関連がない。広島に限定すると、山間地のポイントがなくなり、代わって、サンプリング地点の意義は全く異なる、瀬戸内海の中心になった。現在のサンプリング地点は主として、日本を囲んだポイントになっており、日本の酸性雨を考えるというよりは、外国からの移流を意識したポイントになっている。大気の移流酸性雨シミュレーションはやっと、できるようになり、国際比較検討できる水準になった。乾性沈着の方法が確立されてきた。しかし、沈着係数は、検討が進んでいない。森林故損の原因を特定できる決定的な方法は確立されていない。   

 


関 口 恭 一 氏 を 悼 ん で:押尾 敏夫(千葉県環境研究センター)

 

 氏との関わりは,関東及びその周辺地域で多数の人体影響が発生した”湿性大気汚染”以来です。 そんな関係で小山氏共々群馬のスギを見てまわりました。 氏は1947年いわゆる戦後のベビーブームの生まれで同い年でも有ったことから,何かとお付き合いがありました。 氏は,我が家に泊まった数少ないうちの一人でした。 氏は私から見れば,皆さんも納得するように体格優良で体力に絶対的な自信があったようです。 今思えば,それが落とし穴であったのかもしれません。 皆さん気を付けてくださいよ!! 若いときは,2日,3日は何のその・・・,猪の如く突き進んでまいりました。けれど,そんな無理が・・・と悔やまれてなりません。

 氏は,中国とメキシコの大気汚染を非常に気にかけておりました。 昨年お見舞いした折,「重慶は星が見えるようになったが,メキシコは大変なようであり,千葉県でも研修を受け入れている」と話したところ大変喜んでいました。

 氏にとっては,好きな研究をやってこられ,「53歳はいかにも短い一生かもしれませんが,充実した一生であった」ことを願ってやみません。

 極楽浄土は近い。氏ならば必ずやたどり着き歓迎されるであろう。      合掌

 


関口さん、どうぞ安らかに!!:北村 洋子(宮城県保健環境センター)

   

 「てんきん、いやな響きだなー!!」。これは宇部市での大気汚染学会(現、大気環境学会)の折り、関東の人達に混ぜてもらって一緒に行ったふぐ料理店「天金」でふぐ刺し等を食べながら関口さんが発した言葉です。 あの頃は、関口さんが、関東地方で見られるスギ枯れは酸性雨によるものであるとの発表をなさったり、関東地方を中心に精力的に酸性雨の調査が進められている時期でもありました。冒頭の言葉は、意欲的に酸性雨問題に取り組んでいる誰もが他の仕事に転勤されられることを恐れているであろう気持ちを、代弁するかの様でした。

 

 かく言う私は、不本意ながら昭和61年に保健所での「細菌」検査と言う、全く畑違いの部門に転勤させられてしまいました。大学の講義で微生物学を学んだということを唯一の心の拠り所として、全く基本の「き」から、すべての技術を手取り足取りの指導の下、9年間続けてまいりました。そろそろ「お給料をいただけるだけの仕事はしています」と言える様になったかな、と思っていた頃、今度は消費生活センターで「繊維」のテストとそれに関わるクリーニング苦情を担当する事になりました。晴天の霹靂、不思議の国のアリス状態でした。「細菌」の時とは違い、担当は私一人。それでも、私の無知、無能力のせいで宮城県民が不利益を被ってはならないとの思いから、必死でした。4年目には「繊維製品品質管理士」という資格も取り、さあこれからもう少し良い仕事が出来るかな、と思っていた矢先、今度は古巣である保健環境センター大気部への転勤を命じられました。

 宮城県では国設2カ所、県独自のモニタリング2カ所に加え平成4年度より年に2回、市町村の協力を得てきわめて費用対効果の大きい(と私は思っています)全県一斉酸性雨調査を実施しておりました。私は昨年4月からこれら「酸性雨」を担当する事になりました。

 

 大気部を離れてから何年か経った時のある「些細な出来事」と、もう2度と大気部に戻ることもないだろうとの予想から、大気環境学会からも酸性雨研究会からも縁を切っておりました。しかし、今回再び酸性雨を担当する事になったのを機に、13年間のギャップを埋めるべく(不可能?)精力的に酸性雨情報交換会等に参加させていただいておりました。そこで、かつて酸性雨に取り組んでいた方達の多くが(現在は、その中核が関西方面に移っている感がありますが)13年の歳月を経た今もまだ、精力的に酸性雨問題に取り組んでいる事を知り、感激すると共に大変うれしく思いました。14年ぶりに戻った私を暖かく(?)迎えて下さったこと、本当に感謝いたしております。そして今は酸性雨との関わりを持たれていない方でも、他の部署で元気にご活躍なさっていることと信じておりました。

 そんな折り、関口さんが体調を崩したため仕事を辞めて病気療養中であるということを知りました。快復をお祈りしておりましたのに、程なくして訃報に接し、呆然としてしまいました。

 

 私が関口さんと最後にお会いしたのは、いくつかの学会が集まっての連合学会(?)なるものが東京で開催された折りでした。私はすでに保健所に移っておりましたし、知っている人は誰もいないだろうと思い、出かけていったのですが、偶然にも関口さんにお会いする事が出来ました。更に「先生の背広、高そうですね。」と通りかかったH氏さんに関口さんが声をかけたのをきっかけに、しばらくロビーで中国の話などをお聞きしながらおしゃべりをしておりました。

 

 関口さんとの接点はそれ程多くないのですが、私の脳裏に焼き付いていて、今でも鮮明に思い出すことが出来る2つの光景を書かせていただきました。とても、明るく、臆することなく、前向きで一生懸命に仕事に取り組んでいらっしゃるというのが私の関口さんに対する印象でした。 私が関口さんと知り合った頃は、関口さんが最も輝いていた時期だったのではないかと、私は勝手に信じております。

 

 ご冥福をお祈り申し上げます。

                         


関 口 さ ん の 思 い 出:古明地 哲人(東京都環境科学研究所)

 

 関口さんが入院されたと千葉の押尾さんからお聞きしたのは何年前になるだろうか。関口さんが若いころ健康を害され、回復されるのに大変苦労された事を遥か昔にお聞きした事があった事を思い出し、今度もきっと克服され、また張りのある関口さんの大声が再び聞けるものと確信していました。しかし、今こうして関口さんが亡くなられ、一周忌を前にこの文を書こうとは。誰も思わなかった。

 関口さんと知己となったのは関東地方酸性雨調査が再開された昭和55年(1980年)頃からだったでしょうか。このころの酸性雨のまとめの会議は23日の泊り込みでそれぞれ分担部分を作業、議論しながら進めていく形をとり、まさに共同作業でした。

 このような場を通して関東地方の、また日本の酸性雨の調査研究は推進されていったと思います。

 また、関口さんは国際的にも幅広く活躍されました。1985年には「欧米公害事情調査団(酸性雨にかかわる調査と実態視察)」に加わり、欧米の酸性雨事情をつぶさに見てこられました。この後、公衆衛生院で原さんを中心に1987年4月23日(水)「酸性雨月例討論会」が始められました。このときの参加メンバーは鶴田治雄さん(農業環境技術研究所、当時は横浜市公害研究所)、関口恭一さん(群馬県衛星公害研究所)、それに私、古明地の4名でした。この検討会のもう1つの目的は「The 2nd International Conference on Atmospheric Sciences and Applications to Air Quality, October 3-7,1988,Tokyo,Japan」で研究成果を発表する事でした。その時の関口さんのプレゼンテーションのタイトルは

7-6 Comparison of Dieback Areas of Japanese Cedar with Distribution of Air Pollutants in Kanto District, Japan 」でした。Oral presentation のテキストを買い、みんなで何回も練習しました。この国際学会が私にとって初めての国際学会の経験でした。その後、この酸性雨月例検討会は実に50回開催され、次の「International Seminar on Environmental Acidification」へと発展的に解散、継承されました。

 関口さんはこの「酸性雨月例検討会」にくるとき何時もみんなで楽しめる茶菓子を手土産に持ってきてくれました。この菓子を頂きながら、酸性雨研究にかける関口さんの情熱を、また、夢をきかされ、議論したものでした。この時間は、私たち酸性雨の調査研究に携わるものにとってかけがえのない実り多き時間であったと思います。

 調査研究の最も実り多き年代に互いに切磋琢磨した研究仲間であった関口さん、今彼の日本を代表する酸性雨研究の集大成である学位論文「大気中の酸性汚染物質とその環境影響」を手にしながら、日本の酸性雨研究の真っ只中を勇敢に駆け抜けた関口さんの雄姿を、後姿として遠ざかっていくのを見送るのはなんとも残念ですが、しかし、彼の酸性雨に架けた情熱と剛毅さは永遠に私たちを叱咤激励してやまないでしょう。

  


酸性雨問題提起のころ----関口恭一さんの思い出:小山 功(東京都環境学習センター)

 

【酸性雨による被害発生】

 1973年に静岡県で霧雨による目の痛みや皮膚の痛みを訴える事件が発生しました。当日の午後には山梨県でも被害が発生しました。翌年には南関東で共同調査が実施されました。1975年から5年間、環境庁主催の共同調査が行われました。

 この多人数の被害が発生した2年間だけした。スギの衰退は樹冠を残し、すぐ下の枝は不定芽を何回も発生させながら徐々に枯れることが多く、しかも、スギは樹冠が枯れてもそのまま10年以上枯れた部分を残しているので、衰退樹は発見しやすいでした。スギの衰退調査で、最大の難問は切られてしまうことでした。切られると、人々の記憶から忘れ去られてしまい、スギの衰退がなかったかのように見られがちだからです。

しかし、その後もpH3台の降水は日常的に降っていたし、東京郊外に行ったとき、実際に皮膚に当たると痛みを強く感じました。周りの人に聞いても、痛みを感じていました。

 大径木の衰退(被害)は高所で起きているため、観察及び判断は緻密で長期間の努力が必要で、生産材までの年数(樹径)を調査研究対象としている林業家や林学研究者には、衰退観察は無理なことのようでした。また、植物研究者は、スギの枝に不定芽が多数出ている状態を見て、恢復している兆候と言っていました。

当時、北欧の酸性雨による樹木衰退は毎日のように新聞に掲載されていました。しかし、わが国ではSO2COやばい煙対策は世界で一番進んだので、1970年頃までのようなぜんそくや植物が枯れるような被害はない、という見方が信じられていました。

 わが国では、酸性雨被害は人体被害のみと見られ、北欧の植物や湖沼への被害現象とは異なるとされていました。このため、関東地方で発生した被害現象を湿性大気汚染と呼んでいました。

【広域調査継続へ】

 1980年に、この調査を継続するかどうか関東地方公害対策本部大気汚染部会(以下、鯛汚染部会と言うことにします)の総会がもたれました。

私も研究者代表ということで、出席していました。私は調査を継続することを主張したのですが、各県の担当課長及び代理者の事務屋さんの同意が得られないでいました。その折、私を助けてくれたのは神奈川県の若手事務職のAさんでした。小山さんは昭和40年に比べ、SO2等の大気汚染物質の排出は少なくなったとはいえ、解決したわけではない。しかも高煙突化が図られているので、極端な高濃度地域はなくなったが、被害面積が広がった。スエーデンなどでは近くに汚染源がなくても、被害が出ているではないか」こう言いたいのでしょ、と救いの手を出してくれました。このことをきっかけに調査は継続すると共に、北関東の3県にも参加を積極的に働きかけることになりました。

各県とも本庁を説得したのですが、良い返事をもらえないでいました。やむを得ず研究所の大気担当者に話を持って行きました。すぐに手を挙げてくれたのが、群馬県の関口さんでした。それまで消極的だった北関東の2県も群馬県が参加したということを聞くと、すぐに参加してきました。

  1981年5月、大気汚染部会(植物部会)では、前年度の座長が新年度初会議で「ケヤキやアサガオなどの光化学スモッグ被害のみではなく、スギの衰退も調査対象にしなければならなかったが出来ずに申し訳ない、また組織替えがあったためこの調査からも手を引かなければならなくなった」と謝り、調査から去っていきました。

 その年の大気汚染研究協議会(現大気環境学会)年会は、東京で行われました。関口さんが年会で「酸性雨とスギの衰退」の講演を行いました。東京都が事務局を引き受けていたため、私が酸性雨の研究発表要旨の原稿を整理することになりました。真夏の暑い日に関口さんから原稿の差し替えが出来るかどうか、電話で問い合わせがありました。もう既に原稿は印刷所まわっていたのですが、すぐに来てもらえば差し替えが可能だと伝えると、開襟シャツ姿で刈り上げた髪から汗を流しながら飛んできました。

その原稿を見ると、提出された原稿をあちこち修正してあり、いろいろの人から無理矢理修正された様子がよく分かりました。当時の学会誌を見て確かめてください。その苦悩の痕跡が窺えます。今、考えてみると差し替えは出来ないと言ってあげた方が、関口さんの思いがよく伝わったのではないか思え、残念でなりません。

【関口氏のスギ衰退と酸性雨が新聞に報道される】

 当時の新聞には毎日のように北欧の森林衰退が報道されていました。森が枯れている写真ばかりではなく、森や湖に石灰を撒いている写真もありました。日本で被害がないのはおかしいと言わんばかりでした。

 学会の1週間ほど前に、朝日の記者から部長席に電話が掛かってきました。部長は不在ですと答えのですが、記者も執拗に食い下がり、講演内容について聴いてきました。私は全体を整理していないと断ったのですが、記者もそのくらいではメゲルことなく、知っている範囲でいいから、と言ってきました。問題提起された公害の本質を理解せず、経済発展を善と心得る人たちに押し潰されていたスギ枯れ問題を勇気持って発表した関口氏の論文のことを紹介しました。翌日の新聞を見ると、関口氏の発表のことが社会面に大きく載っていました。

酸性雨被害なしとするA部長が在籍していれば新聞に関口氏が酸性雨とスギの衰退を関連づけた記事が掲載されることはなかったでしょう。スギ年輪年代解析から見てもとうていそうは見えませんでしたが。A部長は後に、今までの考えは間違っていたとは認めず、われわれに内緒で雑誌世界に酸性雨の解説記事を書いています。しかし、またしばらくすると樹は枯れていないと言い出しています。

【若い人には自由な研究を】

 報道された反響は大きく、大気汚染学会当日、関口氏の講演会場の通路も超満員で廊下にも人が溢れていました。関口氏の発表が終わるのを待ちかまえていた初老の人が通路の人をかき分け、前に進みながら「たまたま1回や2回北欧を見に行ってきたからといって、酸性雨でスギが枯れると結論づけてよいのか、所長の見解を聞きたい」と質問しました。氏家淳雄群馬県衛生公害研究所長はおもむろに答えました「若い人には自由な研究を、責任は上司がとればよいと思うがどうですか」と。この答弁で初老の人は引き下がりました。

 その時の初老の人が東京工業大学名誉教授のK氏であることが後で分かりました。K氏は1960年代に排煙脱硫法を開発した人です。「わが国の大気汚染の教訓」という本などでもSO2等の公害問題は解決できたと賛美し、わが国は公害対策先進国であるようなことを言っています。

もしもそのときに水俣病の解明を遅らせ被害を拡大し被害者の苦しみを長引かせた張本人の1人ということが分かっていれば、もう少し対応を変えられたのですが。

 後で関口さんから聞いた話ですが、学会原稿に手を入れたのは県上層部だと言うことでした。都だったら上層部の意向をくみA部長のような人間が先頭になってつぶしに掛かってきます。現に都の政策に反対した都研究所のI氏は公害もなくなっていないのに、研究所の名所を環境の名にかえることに反対したところ、ゆえなく配転させられました。反対し弾圧と戦ったため、寿命を縮めてしまいました。県上層部の圧力にも屈しない原部長や氏家所長を上司に持った関口氏がうらやましいかぎりです。

 群馬県幹部職員が強気であったのは、国(大企業)の意向を汲んでいる県林業行政側の見解によるものと思われました。現に、県林業試験場長は昭和40年代のスギの調査報告書を私に見せてくれ、スギが枯れたのは過去の話で、現在は不定芽も発生しているし、恢復してきているというものでした。

 余談ですが、学会の年会は日本青年会館で行われました。会館側から宿泊し、研修する施設なので、会議室だけでは貸せない、と言われたそうです。このため、われわれ酸性雨研究を行っている人に、40〜50畳の大広間にみんなで雑魚寝をしてもらいたいと、頼まれました。やむなく20〜30人で雑魚寝をしました。このことがオールナイトミーティングのきっかけになりました。ところが、その後、泊まって欲しいと頼んだ張本人のA氏達からあんた達は徒党を組んでいると言いがかりを付けられるようになりました。また、酸性雨分科会を立ち上げたいと学会に申請したときも何年間も放置されていました。

【見る目がある県上層部?】

 群馬県幹部職員の見る目も相当です。関口さんが研究所に入所し、最初に担当させられた仕事は水質だったそうです。研究テーマが渡良瀬川の水質は改善されたか否かの言及になりかけると、大気担当に配転させられてしまったそうです。もし、関口さんが水質部で渡良瀬川の研究を続けていれば、現在も水質汚染が続いており、植林を何年も行っていながら足尾の山は未だに禿げ山であることを明らかにしてしまったことでしょう。そうさせてはならないと、大気に配転させられたと病院で関口氏からお聞きました。恐らく予算のほとんどない大気なら大した研究は出来ないという幹部職員の読みからでしょう。

 風前の灯火の研究であった酸性雨研究は、関口さんのおかげで急に脚光を浴びるようになり、今まで、よそを向いていた研究者や行政マン達は急に酸性雨やスギの衰退を研究するようになりました。

【関口氏、環境庁・林野庁を動かす】

 新聞が関東地方のスギ衰退や北欧の樹木衰退を取り上げると、林野庁の重い腰が上がりました。林業試験場(現:森林総合研究所)では、昭和40年代に行った関東地方のスギ衰退と比較調査しました。結論は衰退が山間部周辺の平野部で進んでいるというものでした。原因の特定かを推定できるものもあるが、不明な地点があるというものでした。この調査で残念なのは、対象が直径30cm以上を同一に扱ったため、大径木も若木も同一の評価がされてしまったこと、衰退し既に切られてしまった樹は除外されていること、及び東京都心は調査対象から除かれていることです。このため、関東平野周辺部にしか目が向いていませんでした。

 しかし、次々に衰退が明らかになると、環境庁では第2次酸性雨調査を立ち上げました。

 千葉大学(当時)の高橋先生が関西でもスギが衰退していることを発表しました。以前に私が関西の酸性雨研究者に奈良や京都でも、六甲でもスギが衰退していることを惹起したのですが、自分たちは植物研究者ではないと言われ、被害に関心を示してもらえなかったことです。

 関口さんは、ある業界団体から年間1千万円ずつ10年間出すから酸性雨研究をやらないかと誘いがあったそうです。その後、林野庁でも全国の地方自治体の林業試験場にスギの衰退と酸性雨の関係の調査を行うよう指令しました。

【関口氏が配転される】

 関口氏は国立環境研の村野氏と共同で酸性霧の調査も行っていられました。群馬県衛公研所長の氏家先生が突然引退されてしまいました。すると待ってましたとばかり、関口氏は食品研究部に配転させられてしまいました。

 関口さんからは、その後はあれだけ情熱を燃やしていた酸性雨研究の「さ」の字も聞かれませんでした。癌が見つかり手術した後にお会いしたときも、死の直前にご自宅におじゃました時もです。何があったのかお聞きしておけばよかったなと思う次第です。

【残念なのは公害研究者でも身の回りの公害には無関心だったこと】

 関口さんは若い頃はタバコを吸っていたそうです。また、押尾さんと水上さんと共にご自宅にお見舞いに行った時のことですが、家の裏でゴミをもしていました。その時、ビニールも一緒に燃していましたが、その臭いはずいぶん遠くからもわかりました。

 関口さんにゴミを燃すとダイオキシンなどが出るので、問題でしょうと言うと、これはまずいなと言い、困った顔をしていられました。

 公害研究者や田舎に住んでいる人の中には、自分が浴びる公害については無頓着の人がよくいます。いくら付近の大気がきれいなところだからとか発生量が少ないといっても、発生源が近く、自身自身が吸う空気の汚染物質濃度が高ければ、侵されるのではないでようか。もっとも公衆衛生医学の大権威の前東京都環境科学研究所長の北先生も膝が痛い膝が痛いと言いながらタバコは手から放せませんでした。自分がその時にならないと止められないのかも知れません。

 公害は自身が被曝する濃度と時間の積だと思います。公害研究者でタバコを吸っている人は、将来とも健康を損なわないということを証明していただくか、自分は中毒していて止められないと云うことを是非公言して下さい。日本たばこ会社は、「タバコは大人の嗜み」とか、「タバコは嗜好品であり、いやな人は自分の意志で止められる」と言っていますから。

【関口さん、体が悪いにもかかわらず、最後まで囲碁を楽しませて頂きありがとう】

 関口さんが体を悪くし、退職してからFAX囲碁を通してお付き合いをさせて頂いていました。ご本人は右手の神経が少し麻痺していたため、奥様がいつも代筆をされていました。優しい人を奥様にした関口さんは最後まで幸せで、うらやましい限りです。

私は生まれつき虚弱体質で、光化学スモッグ、自動車排ガスや煙草の煙に泣かされています。多くの人みたいに長生きはできませんので、近々に関口さんの元に行きますので、また、環境問題の議論や囲碁を楽しみましょう。

 その前に、関口さんと約束したシベリア旅行をしてきて、その報告もします。

 長く献身的に関口さんに奉仕した奥様に感謝しつつ、筆を置きます。

 奥様(愛子様)本当にありがとうございました。お子様と共にお元気に、いつまでも関口恭一さんの墓を守ってあげてください。

 


関 口 さ ん の 思 い 出:田口 圭介(大阪府公害監視セター)

 

関口君に初めてお会いしたのは、20年近く前になりますが、環境庁主催の研究発表会会場で、群馬県前橋における「pH2.9の雨」について発表されていました。もっとも、その時は直接お話する機会はありませんでしたが、きちんとデータをそろえたものでした。

 少し後で、大気環境学会の夜、オールナイトミィーティングでお付き合いをして、何度か’元気’を頂いた記憶があります。その後、例の「関東地域のスギ枯れと酸性物沈着の関係」についての発表で全国区になられました。

 彼の指摘が学問的に正しいとか、正しくないとか、私は専門外で確信はありませんが、少なくとも彼の発表がきっかけとなり、全国とりわけ関東で「スギ枯れ研究」が多くの研究者によって、取り組まれたことは否定出来ないように思います。中には、彼の指摘は間違っていると主張される林学分野の方の研究も進んだようにも思いますが。そういう意味でも、彼が投げかけた課題はとてつも大きな波紋を広げ、それまで余り光があたらなかった研究分野を活性化させた功績は大きかったのではないかと今も思っています。

彼のスギ枯れの指摘以降、私もスギの梢端を見る癖が出来ました。余所の土地へ旅しても、車窓から眺めて観察するようになりました。そう言えば、最初に彼が関東地域のスギ枯れが余りにも多いと気づいたのは、当時つくばの公害研(現、国環研)へ行く常磐線の車窓からだったと聞いたことがありますが、環境問題はどこからでも見えるものだと当時改めて感じさせられました。ただし、問題意識を持っていないと、見えるけれど、見えないんですね。

二人きりでしゃべった記憶はあまりありませんが、彼の人柄と同時に、今もあの野太い声は私の脳裏に染みついています。地方環境研を取り巻く環境の厳しい今こそ、もう一度あの元気な声を聞かせて欲しいと思うのは私だけではあるまいと思います。今の全環研に一番ほしい人です。余り心配ばかりかけると、安らかにねむれませんね。時々でいいですから、見守っていて下さい。                     合掌


関 口 さ ん:谷尾 桂子(京都府保健福祉部)

 

 もう十数年前でしょうか、私が酸性雨の担当となって間もない頃、関口さんの酸性雨研究論文を拝見しました。当時は雨を測るだけで精一杯だったのですが、大気汚染物質の発生と輸送に加え、生態への影響をも視野に入れた中で酸性雨をとらえるという、もっと大きな世界があることを一連の論文で初めて知りました。ああ、こんなことも出来るんだ、と励まされた一方で、環境に関わる人としての危機意識あるいは使命、責任というものも、読みながら感じていたのではないか。と、思います。それは、私にとって、何のために雨を測っているのか、何を私が目指すのかという問いかけでもあり、ずっと、心のどこかに引っかかっています。

 関口さんとは少し言葉を交わした程度でしたので、そのうち私の中で、人に言えるようなものができたら、じっくりお話ししてみたいな、と、思っておりました。関口さんの宿題には、何年もかかって、答えを出してゆこうと思っています。

 

永 遠 の ラ イ バ ル ・ 関 口 さ ん:玉置 元則(兵庫県立公害研究所)

 

 関口さんも個性豊かな人でしたが、彼の上司の氏家所長はもっとユニークな方でした。ある時、関口さんを紹介するための肩書きを知る必要があり、彼の研究所へ電話すると、なぜか最初に電話をとったのが氏家所長で「玉置さんか。氏家だ。うん。関口か。あいつはヒラ、ヒラだよ。それでいいんだよ」あっけにとられている間に電話は切られてしまいました。しかし、順風満帆の時も、逆風強き時も一時期の関口さんを支えてくれていたのは氏家所長であったと思っています。

 1985年、東京都の国立教育会館で開催された第26回大気汚染学会は、「酸性雨」にとってもっとも印象的な学会でした。関口さんが「関東地方における酸性降下物とスギ枯れについて」を発表するとともに、夜の酸性降雨討論会で「わが国及び欧米の酸性降下物による生態被害について」の講演を行いました。環境関連の目は一時そこに集中した感があり、私は、マスコミに囲まれた彼を半ばうらやましく、半ば危惧しながら眺めていた記憶があります。この発表が少しポテンシャルが落ちかけていた酸性雨研究を活性化し、酸性雨に世間の注目をあびさせたことは間違いのない事実でした。しかし、関口さんにとってはこれらの先駆的な活動にもかかわらず、その後酸性雨研究を十分には続けられなくなるという悲劇の出発点であったような気がします。このようなことも一つの契機となり、腹を割って話し合いたい、詳細な情報を得たいという要求に答え、1987年に今の「酸性雨オールナイトミーティング」が持たれるようになりました。自治体間の壁などはあるにせよ、研究者の集団として「酸性雨グループ」がなぜ彼を支えられなかったのかという、自戒の念は今も強く持っています。

 私が最初に関口さんにお会いしたのは昭和58年(1983年)の環境庁による酸性雨調査に関する会議でした。彼はすでに1970年代後半から1980年代前半にかけて、「濃度マトリックスによる解析」、「前橋のpH2.86の雨」、「イオンバランス」、「原子吸光分析での妨害物除去」などで新しい発想法ですばらしい研究成果をあげており、1987年には「大気中の酸性汚染物質とその環境影響」で学位を取りました。実質的には「酸性雨博士」の第1号だと思っています。この間、環境庁の酸性雨対策検討会の調査方法ワーキンググループなどのメンバーとして白熱した議論を闘わせ、少しでも前に出たいと互いに競り合っていたような時期もありました。関口さんは明確に日本の酸性雨研究の勃興期を支えた一人であるとともに、私を酸性雨にのめりこませるようにしたのも彼であったような気がします。ご冥福をお祈りします。

 


関 口 さ ん の 思 い 出:土屋 哲(北関東地区担当幹事)

 

 関口さんとは職場(現在の群馬県衛生環境研究所)の同僚として1973年から1995年に小生が群馬県衛生環境研究所から転勤するまでの22年間、束の間ご一緒させていただきました。関口さんは研究熱心な方で配属されたセクションそれぞれで彼独自のテーマを見いだし精力的に取り組まれていました。中でも大気室での酸性雨研究は関口さんが最も情熱を傾けた仕事であったと思います。関口さんからは小生が大気室に配属された数年間、関口さん独特の大きな声で酸性雨研究への熱き思いをお聞きし、酸性雨研究のイロハや実験、測定のノウハウを教えて頂きました。

 その後、小生が転勤したこともあり、お会いする機会も少なくなったのですが、たまにお会いすると「酸性雨研究ニュースの配布ありがとう」とにこやかにお礼を言われたのが思い出されます。

 昨年から関口さんの体調が悪いと洩れ伺い心配していたのですが、「酸性雨研究ニュースNo.53」で関口さんのプラス思考の元気な手記を拝見し安心した矢先の突然の訃報に驚きと悲しみの気持ちで告別式に参加させていただいた次第です。

 

関 口 さ ん の こ と: 原 宏(国立公衆衛生院)

 

関口恭一さんとはじめてお会いしたのは、昭和58年の春であった。本院の研修課程、「特別課程・衛生化学特論コース」を受けられたとき、小生の部屋に来られ、指導教官としてお世話した。それ以来、関口さんにはずいぶん助けていただいた。

個人的なこと

 この特論コースは実務経験者が研究をまとめるための研修課程であった。国立公衆衛生院は試験研究機関であるが、教育研修も業務としている。一ヶ月の短期課程と1−3年の長期課程を擁する教育機関でもある。そのなかで、「衛生化学特論コース」は事実上1年間のコースである。5月の連休明けから1ヶ月の前期と、翌年2月の中ごろ2週間の2期に分けて開講される。当時は20名程度の受講生があった。前期一ヶ月間は関連する講義を受けたり、文献を調べ、研究課題を決定する。その後自分の研究所に戻り研究を進め、後期に成果をまとめて発表する、というスタイルをとっている。このコースを機会にそれまでの仕事をまとめ、学位をとる人も少なくない。

 関口さんはそのとき「前橋に降ったpH2.86の雨について」という論文が受理され、ゲラに手を入れておられるころであった。水の研究者から、酸性雨にテーマを移し、専門家としてスタートされたばかりのときであった。酸性雨の研究を発展させる研究の一環として、この研修コースを選ばれたわけである。

 前期が終わったのち、前橋でガス、エアロゾルを併せた降水の観測をやることになり、打ち合わせで衛生公害研究所にお邪魔した。そのときは所員の方の前で酸性雨の話をさせられ、当時の氏家所長の質問攻めに会い、フラフラになったことが忘れられない。

 高崎市にある関口さんのお宅へも案内され、奥様にもお目にかかり、書斎も見せていただいた。衛生院の研修など種種の修了書などが掲げてあったが、その多くが「第一回」、「第一期」と公害・環境に対する取り組みの初期から研鑚されていることをうかがわせることに気がついた。これが例の熱気の元でもあったことだろう。

 観測データがとれ整理していると後期になった。いよいよまとめようという段になって、「それよりこれがしたい」とイオンバランスの話を出された。観測のしっぱなしになるので、これには困った。話を聞いてみるとそれはそれとして面白そうなので、ディスカションして解析方針を決めた。しかし、時間がない。とにかくプリンター付きのプログラム電卓を使うことにし、濃度を換算し、イオン濃度和を算出し、イオンバランスを評価するプログラムを書くことにした。それに関口さんが各試料に対するpHなど10項目の分析結果を入力することになった。試料数は200近くあったと思う。翌日、研究室に出ると机に座ったまま眠っておられた。徹夜で仕上げた結果を見せていただいたが、きれいな結果だったので、正直言ってほっとした。

 これが日本で初めてイオンバランスを論じた仕事であり、翌年、英文レター誌に掲載された。小生も共著者としていれていただいた。また、その後、分科会講演会での講演を指名され、予稿原稿を見てくれと関口さんに依頼された。これまた時間がなかったから小金井のうちに来ていただいたが、その勢いには感心した。ディスカションの後で出したお酒をいい形をして楽しんでいただいた。

 当時、環境庁の「酸性雨対策調査」の第一次調査の後半が進んでおり全国23個所のデータが出つつあった。その解析をするため「環境庁酸性雨検討会大気ワーキング・グループ」が組織され、関口さんもそのメンバーであった。小生が取りまとめを仰せつかったが、関口さんには公私共にお世話になった。報告書やその後の論文を作るとき「同じ方法で行った全国規模の最初の調査だとうんと強調してください」とのコメントは印象的であった。また、少し早めに上京して頂いて、お昼をともにしながら今後の調査体制など二人で口角泡を飛ばせたものである。

 関口さんはそれから降水化学から関東におけるスギ枯れと酸性雨の関係を研究され、休日に車で関東各地を歩き回られ、社会に大きなインパクトを与えられたのはよく知られたところである。

 それからしばらくして、これまでの仕事をまとめ学位論文とされることになった。これは本院の当時の部長、松下先生の薦めであったので、その一次原稿は小生が査読することにもなった。北里大学へ出された論文は審査に合格し、めでたく保健学博士、Dr. Sekiguchiが誕生した。その祝賀会が前橋で開かれることになり小生も招待にあづかったが、氏家所長はじめ研究所の方々、酸性雨の研究者、一族・一門の方とともに発展を祈念したものであった。

 また、本院の長期課程の授業、「大気環境論」で酸性雨の話をしてもらうために今度は講師として来て頂いた。関口さんのこれまでの仕事やそれにまつわる話は人気があった。

 これから二つのことが出てきた。ひとつは、話に感動した受講生が講演会を企画し講師に改めて呼んだことである。

 もうひとつは、関口さんのほかやはり講師に来ていただいた鶴田さん(当時横浜市公害研究所)、古明地さん(当時東京都公害研究所)と4人で語らい「月例酸性雨討論会」を発足させたことである。2年後に東京で開かれることになっていた大気の国際会議(ASAAQ)への発表準備を兼ねたもので、酸性雨の研究を目指したディスカションの場を設けるたものである。月例での開催もあったが、おおむね2−3ヶ月置きの会で、4人で熱心に議論したものである。の人の入れ替わりもあった。なお、この会はその後も続き、1994年12月の第50回をもって解散し、英語で行うISEA(International Seminar on Environmental Acidification)に発展し現在も続いている。

関口さんの仕事

 個人的な話はこれくらいにして、日本の酸性雨研究における仕事として、関口さんの研究を整理してみたい。種種の仕事があるが重要なのは次の3つの研究であろう。

 ひとつは「前橋におけるpH2.86の雨について」(大気汚染研究(現「大気環境学会誌」)である。これは低いpHをきちんとしたイオンバランスで測定した初めての例である。本当にそんな値だったのかと言われたとき、化学的な根拠をもって反論できる仕事である。

 もうひとつは、イオンバランスの問題である。きちんと分析すればイオンバランスは取れるということを示したことである。(Environmental Technology Letters)当時は、「カチオンリッチ(陽イオン過多)」などの表現があったがこれは「アニオンミッシング(他に陰イオンがあるはず)」というべきもので、イオンバランスが合わないのは当然でもあるという雰囲気であった。しかし、新しい試料を分析するとき、残しておいた前回の試料や検量線用標準試料も併せて分析するなど、きちんとした分析の方法を示したものである。

 3番目が「関東のスギ枯れ」である。これは社会に酸性雨の研究が重要であることを訴え、一定の共感を得、影響を与えた功績は大きい。また、酸性雨という環境問題は雨だけの問題ではないことは強く指摘されていたことであるが、このため関口は「AAP (Acid Air Pollutants)」の語を提唱し、雑誌「世界」でスギ枯れを論じたとき「”酸性雨”という言葉であるが、それは酸性化した雨、霧、ガス、降下物等を含んでおり、表現としては不適当であり、それらを表す言葉として著者はAAPなる語を提案している(「世界」1986年9月号pp. 98-103)」との文がみえる。 

 関口さんの仕事を顕彰する意味で、「環境科学ハンドブック」の“日本の酸性雨研究の歴史”でこれら3件は既に紹介したところである。

関口さんが投げかけたもの

 関口さんの広い意味での研究活動は、今後の酸性雨など大気汚染・大気環境の研究に対し陰に陽にいろいろな課題を投げかけている。

 ひとつは社会との関わりであろう。環境影響の可能性、潜在性の指摘と科学的、研究的な根拠、そして説得力。現代の科学の制度化は定説になっており、体制化しているとの解釈も常識化している。社会と科学をつなぐのが環境の科学あるいは環境科学である。このことを念頭に置いた戦略や戦術が必要であろう。

 もうひとつはAAPに象徴されるような酸性雨の学問的な整理であろう。これは制度化に対して大きなプラスになることで、酸性雨の研究に参入する次世代の人たちの増加につながるものである。

 これらのことを考え抜いて、ひとつひとつ実現していくことが関口恭一さんの供養につながると信じている。

                                  合 掌


関 口 さ ん へ 捧 ぐ:平木 隆年(兵庫県立公害研究所)

 

わたしども酸性雨に携るのが少し遅かった人間にとって「関口さん」と言えば、神様、戦士、酸性雨の歴史を体現している恐れ多い存在です。彼の生き様がそのまま日本の酸性雨問題の変遷を象徴しています。今年の大気環境学会で電力中央研究所の方から「酸性雨グループが解散しました」と聞かされたのですが、奇しくも関口さんが永眠されるのを待っていたかのようなタイミングで偶然とは言いがたいものがありました。我々にそのように感じさせるだけ彼の存在が大きかった証でしょう。人によって違いはあるものの、酸性雨に携るものにとって彼の名前は心の何処かに必ず大きな位置を占める「何か」で有った事は紛れもない事実だと思います。

彼には数々の業績や功績がありますが、彼の酸性雨問題に対する問題提起のおかげで国内の発生源による酸性化と生態系への影響が明白な事実となったと思います。それに関して反論も多くあるのも事実ですが、それらの拠りどころとなっている根拠は説得力に欠けており、一般的には彼の指摘が生きつづけていると思います。しかしながら、酸性雨問題に対する根本的な対策は、実施した場合に経済へ与える影響が大き過ぎるため、放置されたままになっています。さらに昨今では外国からの移流ばかりを注目し、わが国自身の問題とする捕らえ方が欠如しつつあります。無論わが国の発生源でも可能な範囲で色々な対策が為されたでしょうが、日本の降水の酸性化は一向に改善されておらず、樹木の枯損は進行しています。さらに彼の問題提起以降に自動車の三元触媒起源のNH3のように重要な物質に関する問題提起なされていますが、様々な汚染物質によってボディブローを受けつづけている日本の生態系を快復するために我々の為すべきことは、今のままで良いのでしょうか、彼はどのように考えていたのでしょうか。

彼の地元には足尾銅山があり、この歴史的なバックグラウンドによって、彼自身の公害問題に対する感度が高かったのでしょう。深刻な環境汚染が見かけ上軽減され、かつての公害企業も環境を売り物にしてイメージチェンジをしていますので、最近の若い人には理解できないことかも知れませんが、最近被害者を出している薬害に対する企業の姿勢と同じものが、企業の本質であります。昭和40年頃までのことを知っている人間はそれらの企業の体質を良く知っており、産官学共同研究を行うことには彼のように非常な抵抗を感じる次第です。また、閉山後の足尾銅山の緑化が遅々として進まない事実を目の当たりにして生態系の快復や保護がいかに大きな困難を伴うかも、痛いほど知っておられたのでしょう。彼の研究の原点は自然に対する「やさしさ」にあったと思えてなりません。また、途上国の研修生を受け入れ教育されてきた実績は非常に先進性に富んでいたと言うべきでしょうし、同じ過ちを繰り返させないと言う姿勢は昨今の国際情勢にも通用する大事な考え方だと思います。また、酸性雨を大気汚染全般の帰結として捕らえる今日的な考え方は、彼の発想によるところが多く、最近普及しつつあるフィルターパックなどによる乾性沈着調査法として具体的な調査が実施されるに至っています。今、関口さんが居てくだされば、研究の方向性を指し示し推進してくださることでしょう。この時期に、彼を失った事がどれほど大きな損失か計り知れません。               

 


関 口 恭 一 さ ん を 偲 ぶ:福崎 紀夫(酸性雨研究センター)

 

 関口さんとは2度富士山に登った。数年前のことである。山梨県の清水さんと高橋さんが計画した関東地域での酸性雨調査仲間と一緒であった。一度は関口さんが八合目付近で高山病でダウンし登頂は断念した。原因はビールであった。電車でビールをやりながらきたとのことで、翌年はその轍を踏まないように登頂まで皆で禁酒した。とても良い思い出となっている。この頃の関口さんは大変なビール好きで、通勤時に自転車に乗りながらビールを飲めるように自転車に’缶ビール置き’を付けたと聞いた。実際に見たことは無かったが飲酒運転の現行犯でつかまらないように工夫が凝らしてあるとのことであった。

 富士の翌年には関口さんの計画でやはり酸性雨仲間と尾瀬を散策した。この頃の関口さんは水環境の仕事をしていた。調査で顔がきくとのことで尾瀬沼にかなり近いところまで車で行けたと記憶している。尾瀬で明るく話されるいろいろな話題の中には、河川水質と珪藻類との関係もあった。むろん陸水酸性化と珪藻種組成の観点からのお仕事で、大気系から水環境系に移っても酸性雨関連の仕事にコツコツと打ち込んでおられる様子がひしひしと伝わった。もし、こんなに早く逝くことがなければ日本の酸性雨による陸水生態系影響調査関係の研究風景も変わっていたかもしれない。

 関口さんと最初にお会いしたのは、昭和50年6月の環境庁公害研修所での大気保全・中級分析コースであった。このとき関口さんと酸性雨のお話をしたかどうかは記憶にないが大変アクティブな人との印象を受けた。関口さんと本格的に仕事上で付き合い始めたのは、関東地域の自治体による湿性大気汚染調査に新潟県がオブザーバー参加してからであった。今から十数年・二十年程前と思う。今でも鮮明に思い出されるのは、東京都内のとある狭い会議室で、夕日を背にして、関口さんが雨の分析値のイオンバランス・導電率による精度管理の必要性を熱っぽく主張しておられた様子である。それまではそのような概念すら無かった私は、頭をぶたれる思いであった。今日の日本では酸性雨モニタリングの精度管理としてこうしたチェックは常識となっているが、日本にこの概念を導入し実際にツールとして最初に使用したのは関口さんに他ならなく、関口さんはいわば日本の酸性雨モニタリングの精度管理・精度保証の父と呼ぶべき人であった。いま、私たちは、東アジア酸性雨モニタリングネットワークを通して途上国の酸性雨モニタリング担当者にイオンバランスや導電率チェックの必要性を声高に訴えているがその基礎を築いたともいえる。関口さんは関東地方の杉の衰退を世間に問うた人としてあまりにも著名であったが、信頼性の高いモニタリングデータを提供するというベースラインを確立した人でもあった。どうぞ、安らかにお眠りください。

 

 

日本の酸性雨研究にとって昭和60年の秋とは・・・:牧野 宏神奈川県環境科学センタ−)

                           

 昭和60年の秋に関口氏がスギ枯れが酸性降下物と関連があることを示唆する発表をしたときの熱気に満ちた大気汚染学会会場の雰囲気を今でもはっきりと記憶している。発表が終わるやいなや、すかさず手を挙げて欧州での一部の学説を引用しながら熱弁をふるって反論したのは、水俣病原因物質としての工場廃液中の有機水銀説に対してアミン中毒説をかかげ反論を唱えた元東京工大教授の清浦氏であった。事前に発表の内容がマスコミで取り上げられていたので、十分準備して乗り込んできたという風であった。

  目や皮膚に痛みを生じさせる湿性大気汚染(酸性雨)の原因調査はさておき、日本で本格的に酸性雨関連の調査研究が始められたのは昭和57年からであろう。先進国の間で重要な議題として酸性雨問題が取り上げられたUNEP会議から帰国した環境庁長官原氏の「日本ではどうなっているか」という一言で、役人には珍しく直ぐに何かやらねばならないと考えた水質規制課長が急遽、「自動化に関する研究(酸性雨測定法)」という事業をつくり地方自治体の試験研究機関の担当者を集めて協力を依頼した。そのなかには今も活躍している兵庫の玉置氏、奈良の松本氏、広島の大原さんがいた。

 実をいうとその2年前に東京の小山氏の呼びかけで関東地方の1都6県の自治体では既に森林影響を対象とした酸性雨調査を細々と始めていたのである。そのメンバーのひとりとしてあのタフで実行力のある関口氏がいた。

 話を戻すが、昭和57年当時は深刻な公害問題が一段落し、環境科学分野の学界は沈滞気味であった。そこで原氏の一言により多くの優秀な研究者が先を競うように酸性雨の課題に取り組むことになった。しかし所詮、外圧から始まり、日本では酸性雨の被害がないと思われていたので、先細りになるのは目に見えていた。そのような時に行った関口氏の発表内容は、清浦氏の行動にみられるような大きな衝撃を産業界に与えた。それを契機に日本における酸性雨関連の調査研究が数々の成果を上げたのは周知の通りである。

 私は7年前に酸性雨関連の仕事から離れたが、もし日本の酸性雨研究の功労者は誰かと聞かれたら昭和60年の秋、多くの日本人の関心を酸性雨問題へ向けさせた関口氏を第1にあげる。

  最後になったが関口氏のご冥福をお祈りします。

 


関 口 恭 一 さ ん を 偲 ん で:松本 光弘(奈良県衛生研究所)

 

関口恭一さんが亡くなられたという突然の訃報に接し、前から余り良くないと聞いていて、ある程度予期はしておりましたが、強いショックを感じました。

 彼は私と同じ53才で、同じ時代を、酸性雨に対するスタンスは幾分異なりますが、研究の励みとして意識しておりました。私が彼を始めて知ったのは、私が1976年に奈良県に採用され衛生研究所で大気の仕事をし始め、翌年の大気汚染学会(現:大気環境学会)に参加した時です。その時、彼は「濃度相関マトリックスによる降水に含まれる化学成分の長距離移動の解析」を独特の大きなダミ声で発表され、その手法に興味を持ち、発表後に個人的に質問したことを憶えています。当時、私は大学では環境と異なる分野の研究を行っていたため、衛生研究所に入り大気汚染の右も左も判らず新しい研究に取り組もうと模索していたようです。とにかく私の目から見れば非常に精力的に研究を行っていました。

 その後、関口さんは酸性雨の研究を精力的に行い、また、発展させて1987年に北里大学より「大気中の酸性汚染物質とその環境影響」という研究テーマにより保健学博士を授与されました。今、私の手元に関口さんよりお送りいただいた学位論文に、直筆の手紙が入っており、この学位は酸性雨を行っている研究者を代表していただいたもので、酸性雨研究が認知されましたと書いてありました。この論文を今、読み返してみると、彼は酸性雨だけでなく、今で言う乾性沈着をも含めた酸性汚染物質(Acid Air Pollutants、AAP)という言葉を使い、このAAPによるスギ枯れ等の植生影響まで言及しており,当時、わたしは酸性雨の測定法や分析法の検討を行っており、とても植生影響にまで研究を行うレベルには達していなかったと思います。

 関口さんと私は関東と関西ということもあって、年に2、3回程度しか学会や国立公衆衛生院あるいは国立公害研究所でしかお目にかかれなかったように思いますが、学会誌等でのご活躍が私の研究の励みとなっていたのは事実です。1989年に私が全公研(現:全環研)の海外研修派遣に選ばれた時、申請書に書いてある受け入れ先の先生(Virginia大学のGalloway先生)が多忙のため手紙で何回もやりとりをしましたが、受け入れをしてくれなく、この研修の規定では、受け入れ先が受け入れてくれない場合には次点の者になるとなっており、その時、関口さんより早く譲れと催促されましたが、どうにかGalloway先生に滞在を許され、行けることになり(この時は大喜多先生に大変お世話になりました)、私の酸性雨研究に大いに役立ち、もし、これが関口さんが行かれておれば、また、彼にとっても大きな研究のきっかけになっていたかもと思います。

 ただ残念なことは、その後彼は食品研究部へ配属され、学会でもお目にかかれることはなくなったが、元気に研究を行っているということは聞いており安心しておりました。

 あまりにも早すぎる冥土への旅たちは、彼の性格からしてまだまだやり残したことが多くあるように思いますが、奥様をはじめ、ご遺族の心中を察しますとお慰めする言葉もありません。関口恭一さんのご冥福を心よりお祈りし、お別れいたします。さようなら。

合掌

 

関 口 恭 一 さ ん の 思 い 出:村野 健太郎(国立環境研究所)

 

 関口さんと、初めてお会いしたのは、四日市で開催された大気汚染学会の時である。私としては、当時北関東で大気汚染研究を進め、すでに酸性雨研究で成果を挙げられていた関口さんに連絡をとっていたからである。その時、関口さんは、酸性雨研究の必要性と重要性を熱っぽく私に語られた。

 私は、酸性霧の研究を始めようとは思っていたが、酸性雨に関しては、まだピンとこないところがあった。1984年の4月には、群馬県衛生公害研究所を訪問して当時の氏家所長といっしょに食事をしたことを覚えている。その年の9月に酸性霧の調査をするということで、我々は、赤城大沼荘に集まった。

関口さんが、赤城山で霧がよくでるところ、観測地点としてふさわしいところを探してくださっていた。霧水捕集器をみんなで設置し霧がでるのを待った。9月x日、夕方には霧が出始めた。我々は、霧の捕集が上手くいったことを喜んで調査を終わった。その時の霧水試は、関口さんがpH、電気伝導度、陽イオン、私が陰イオンの分析を行った。その結果pH2.90という酸性度の高い霧が関口さんの手により測定値がだされた。この値がその後の酸性霧の研究を進めてきたといっても過言ではない。その後、毎年のように、9月ごろには、泊まりこみで、酸性霧の調査を行い、その中で、関口さんのサンプルとサンプルの分析値を大切にする姿勢というのを学んだような気がする。また関口さんは、カナダの北部にある、酸性雨のフィールドを主とする研究施設への留学の希望を熱っぽく語られていた。

 酸性霧に関するデータ検討をするために、環境研(国公研)へたびたび来てもらったが、その往復路には関口さんが深く考えられたもう1つの調査研究があった。これが関東平野の寺社林の杉の先端枯れである。彼は、この点を詳細に研究され、大気汚染学会に発表され、そのことは、非常な反響を呼んだ。私も、連名になってくださいといわれたが、私自身が、その事象を見ていなかったので、連名はお断りした。少しでも見ておいて連名になっていたら状況が良かったのか、さらに悪かったのか関口さんに問いただすことは、もうできない。群馬県は、この発表には好意的ではなく、関口さんも孤軍奮闘、かなり苦労されたことと思う。それでも、酸性霧の研究はしばらくは、続けることができて、彼は、北里大学の博士号を取得された。この博士号取得祝賀会には私も参列したが、一族を挙げての名誉という感じであった。

 その後、関口さんは、研究所内でのポストが変わり、酸性霧調査の時に全期間参加することはできなくなったが、調査の時には、一泊で泊まりに来られて、皆で夜中まで酒を酌み交わしながら議論したことを覚えている。その後研究上のことでは、お会いする機会もなかったが、軽井沢にスェ−デンのガラス製品を扱う店を開いたので是非来てくださいということで、訪れてゆっくりしたことを覚えている。その後、頚椎が悪いとかで、不自由をされているというのは聞いていたが、一昨年奥さんからいろんな病気と闘っていますという衝撃的な手紙を頂いて、8月に群馬大学付属病院に大急ぎで駆けつけた。そこでは、いろいろな病気との闘いを聞いたし、関口さん自身がやせ細られていたので、非常に心配したが、元気に話されていることと回復しつつありますという言葉で、私はおいとました。その後退院して、体力回復の為に毎日歩いていますという連絡をうけたり、酸性雨研究会ニュースへの若干の回復と今後の回復への意気込みの一文を読んでいたので、11月18日午前の奥さんからの“昨夜主人が亡くなりました”という連絡には飛びあがるほど驚くと同時に悲しみを覚えた。関口さんの酸性雨研究に対する必死さを示す語り口はもう聞けなくなったんだ、酸性雨研究者として彼の死は残念で、本当に悔しい。

 


関 口 さ ん と の 出 会 い:山川 和彦(京都府保健環境研究所)

 

 私は、酸性雨部門に関しては関口氏とあまり関わり合いがほとんどありません。

関口氏と知り合うきっかけは、昭和50年6月に国立公害研修所(現国立環境研修所)において開催された「大気分析研修U(中級)」(正確な名称は?)です。この研修は、公害研修所が前年から開所し、中級研修としては第1回であったと思います。

 参加者はほぼ各県1名で、現在も酸性雨や大気関係の部署で活躍されている方が多く、いまだに多くの方々から多くの情報を戴いております。

 前述のとおり、研修所は開所したばかりですので、2人部屋で、カーテンも設備されておらず、早朝から朝日を浴びて、早起きするはずでしたが・・・・・。また、開店早々であったことや、周辺は何もなく、酒や食料の買い出しには所沢駅前まで出かけなくてはならないような環境でした。ですから、5時以降のすることは何もなく、第1日目の懇親会以後毎日研修生の宿泊部屋を交替しダベリング会(懇親会・今流にいえば情報交換会)で渡り歩きました、当番に当たった部屋の2人がその日の買い出しを行うようになっていました。これが2週間続いたわけです。最後のほうでは講師も中に入ってこられてました。

 この場で参加した者は若かりし頃の情熱をぶつけておりました。そこで、関口氏は当時の所長が所謂「変人」と呼ばれる人で、(この頃は変人と呼ばれる方が多かった。)奇問・難問の多い業務命令が多いと嘆いておられたことが、一番印象に残っております。

  このようなことから、関口氏が酸性雨の調査をいち早く手掛けられたと考えております。彼が、日本で一番低いpHが出たと発表したときも大きな騒ぎとなりました。その後落ち着いてから、ばったり大気汚染学会で会った時に事情を聞くと、「あの時は大変だった多くの人から本当だったのか」とも云われそうです。この件に関しても苦労されている印象を持ちました。私も改めて事情を聞いた次第ですが、雨量が非常に少なく再確認ができなかったくらいだと云っていたように思います。この時を契機に、イオンバランスをも測るようになったのではないかと思います。このように、関口氏が酸性雨の草分け的な存在になった裏には変人と呼ばれる所長がおられたからではないかと考えております。

 関口氏の御冥福をお祈り申しあげます。

 

                              (2001年10月23日)  

 

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