<A HERF=http://www5c.biglobe.ne.jp/~akihiro/>TOP</A>

闘病記録(Mac用)

 OSMacを使っている方のためのページです。

月日

検査や症状

私の記憶

7月初め

クレペリン検査で右手麻痺、視界がゆがむなどの症状。中央病院でMR検査、異常なし。

この時は、血液検査はやらなかったのでそのまま帰宅。

自転車で帰宅したのがすごかった。

 

朝起きると唇にかさぶたが出来始める。白血病の進行症状なのだが、全く気がつかない。

学校が終わったあと、夜6時から10時までコンビニのバイトをやっていた。

気にせずバイトに励む。

朝はかさぶた落しが日課になっていた。

別に気にはしていなかった。

8月初め

アザが足に出来始める。白血病の進行症状ですが、多くなった芽球(癌細胞)は圧迫

されるとすぐ内出血してしまいます。なので、少しの衝撃(圧迫)をしただけでも青アザ

が出来てしまうのです。痛みは全くありません。身の覚えのないアザは注意です。

バイトの時、よっかかっていた所がアザになってしまう。この時はきずかない。

 

口の中に血豆が出来るようになる。舌で触るとすぐ潰れる。舌があたるだけでも出血してしまうぐらい、白血病が進行している状態です。

毎日、血を見ていたせいか、あまり気にはとめなかった。バイトに励む。

 

朝起きると、口の中が血だらけになっていた。うがいをすると、水が赤い。

白血病の後期症状です。穴と言う穴から出血してしまう状態でした。

歯茎からだらだらと血が出ていました。痛い―傷―赤い液=血というプロセスがあって

血と認識していたので、まったく痛みがなくただ出てくるだけなので、血とは認識して

いませんでしたし、パニックにもなりませんでした。もしコケて、頭を打っていたらと

思うと、ぞっとします。

まったく痛くないため、気にとめなかった。バイトの先輩に病院へ行くように進められるが、大げさと思いバイトに励む。

 

夏休みに入り、バイトも朝5時から10時と夜6時から10時の11時間の

週3日に増やす。

母が足の治療を始めるため入院する。自転車で南浦和まで、1週間に一回通う。

バイト中、友達に泊まりの誘いがあった。

 

荒井家の座椅子に血痕を残す。

謝罪します。すみませんでした。

 

親に病院へ行くように言われるが、泊まりの約束をしていたので、泊まりを選ぶ。

母は、病院へ行けって行ったけど、泊まりに行ってしまったこと。

とても危険な状態でした。

さすがにおかしいと思い始めた。朝と夜によく、歯茎から血が出るから・・・。

 

翌日、帰宅するとき、左足に激痛が走る。靴が履けなくなっていた。片足で帰った。

白血病の後期症状で、関節痛です。

山田家のソファーに血痕を残す。

本当にごめんなさい。謝罪します。

8月20日

朝起きると、左足に激痛が走る。左足が地面につけられず、杖を使い立つ。

歯茎の出血がひどかったので、歯医者行くか病院へ行くか迷う。朝早いので、病院へ行く。

病院の先生が、唖然としていた。私は足を見せに行ったのに、先生はすぐに血液検査と

点滴を入れて子供部屋を急遽とり、入院をすることになった。

採血の結果、白血球15万 血小板2万以下

この時も、杖を持って自転車で病院へいった。

今思うと、気合はいっているな〜て思う。

 

血液検査と血の止まり具合を調べる検査をやった。血は止まらなかったので圧迫して止めた。この夜、両親は先生に「なんでこんなになるまでほっといたんですか!」と怒られ、

病名を告知される。あと10日遅かったら私の命がなかったことやこれからの治療の

辛さなども言われた。先生が泣いたそうだ。

 私には、あとから聞いた話です。点滴が両手に4本刺してあって、ベットから動けなかったが、まさか入院するとは思わなかった。転院する事を決める。

明日は登校日だったのに、とがっかりしたのを覚えています。

まさか入院になるとは思っていなかった。白血球が高くて血小板が低いと言われ、母に「白血病じゃないのと」冗談半分で聞くと、「そんなわけないじゃん」と言って、部屋を出てってしまった。この時、親は告知をうけていた。

 

 

8月21日

埼玉県立ガンセンターへ転院。この時自分が癌だった事を知る。

初めての骨髄穿刺をやる。穿刺針が抜けなくなり、3人ぐらいに抑えられてやった。

胸のあたりを触られるだけで、激痛が走る。その上、先生が針を出したのでぞっとする

「まさかここに刺す気か?」信じられないくらいで、麻酔もシャレにならないくらいに

激痛が走った。正直、麻酔が効いているのかどうかすらわからなかった。

例えるなら、「ナイフで胸に刺されてグリグリさせ、抜けなくなった」って感じだ。

おそらくこの痛みこそ、人生最大の苦痛だと私は思う。

針が引けないので、生検をやった結果芽球が17万4000

(採血の結果、白血球17万4000 ヘモグロビン8,0 血小板12000)

本気で泣いた。3人ぐらいに抑えられて。(最初のマルク)

 

 

血液科の先生が部屋に入ってきて、告知をうける。

治療をするか、家に帰るかの選択を聞かれる。

治療を選択し、IVH(静脈カテーテル)を右胸に入れられた。

両親にもって、後1年と告知をうけたそうだ。私はあとから聞いた。

急に言われてもわからなかったので、治療の方を選んでいました。家に帰れる状態じゃないと思うし。

 

この日の夜、肩からの出血が止まらなかった。血小板が2万を切っていたので、血がだらだらでていた。主治医の佐竹先生も金子先生も帰ってしまい、大慌て!

タオルケットも血で染まり、時間だけがすぎていった。小林先生がきて、IVHを抜き、麻酔なしで合計6針縫われるものの、糸が切れて失敗。肩に重りを乗っけて、圧迫する事で血が止まる。担当看護婦の岩村さんいわく、「もうだめかと思ったよ」と言う事だ。この夜から数日、夢を見ていた。砂漠みたいなところで、私が黒い軍団に追われている夢をよくみた。

この時はやばかった。小林先生も焦ったらしく、最初の3針を縫って、糸を縛るとき力を入れすぎて切るし、また3針縫ったのに、又切れちゃうし、最後には「渾身の力をこめた」なんて言って、圧迫だもん。麻酔なしの6針はどうなったんだ?

8月後半

学校の先生と親友の佐久間氏が見舞いにきた。意識がもうろうとしていて

来たのは覚えているが、「うぅ〜」しか言えなかった。

点滴針が両腕に6本、点滴や輸血が9本ぶら下がっていた。

まさに、虫の息である。

佐久間氏いわく、ダメかもと!

 

IVHを入れなおし、抗がん剤が入る(白)。薬とイソジンガ-グルが始まる。

岩村さんがイソジン表を作ってくれた。意識を保つのに必死だった。

50音すら思い出せないほど、ずっと「あ、い、う、え、お」って言っていたのを

おぼえている。

 気がついたら、鼻に管が入っていた。自分で鼻からとった。

イソジンはとても嫌いだった。

ファンキゾンが強烈だった。

飲むと同時に嘔吐した。

9月前半

髪の毛が抜け始める。髪を触るたび、ぽろぽろと落ちてくる。床屋に行き(院内)坊主にする。けど、短い髪の毛が落ちてくる。結構へこんだ。

抗がん剤の威力はすごがったし、何度も嘔吐した。けど、効いただけ良かったのかも知れない。

 

クラスメートの三森氏から手紙がきた。栄養失調だと聞いていたらしく、私は、白血病であると返事を返してしまった。私は三森氏がいじめられている時、完全に無視をしてしまった。助けを求めていたのに、友達だと思っていた人に裏切られた三森氏は、私を

許してくれくれないだろうと思っていたので、正直、なぜ私に手紙が来たのか

信じられなかった事を覚えている。

友達を見て見ぬフリをしてしまった事、私は忘れない。

この時には、正直気が抜けすぎてて、頭の中がもうマイナス思考で、魂が抜けた状態だった。この時が落ちるとこまで落ちたとこだと思う。

 

返事が返ってきた。「50%て言われても、一生懸命がんばろうよ」と書いてあった。なかなか言えそうでいえない事だと思うし、がんばれて言ってくれる人はいなかったから、とても救われた気がしました。

1人でも悲しんでくれる人がいるかぎり、私は戦おうと思いました。

三森氏の手紙、来るとは思っても見なかったので、うれしかった。

三森氏には感謝しています。

ありがとうございました!

 

主治医の佐竹先生からある本を薦められる。

「君と白血病」と言う本だった。この本で、この先やるべき治療を知ったし

基礎知識はつきました。今でも役に立っています。

私が活字で読んだ最高記録が「遠い海からきたCoo」63ページ、「君と白血病」は206ページ。キビシ〜!

 

熱が出る。39、5度を超すと採血をやる。

採血は2日に一回だった。

輸血も始まる。気持ちは悪くはならなかった。

イソジンをサボったせいか?

抗がん剤を入れて1週間ぐらいで髪が抜け、2週間で熱が出る。おかげで熱に強くなった気がする。

9月中半

一時退院が許される3日間。

母は、毎日2時間かけて病院に通ってくる。泊り込みなんて日もあった。

父は日曜日に来てくれる。IVHを入れていると、肩が重くなる。

シャバの空気はやっぱりうまい!

1ヶ月たまったジャンプとサンデーを読みあさる。

 

骨髄穿刺と腰椎穿刺をやる。腰椎穿刺とは、芽球が脳へ行かせないために、脊髄から

薬を入れる治療です。芽球が脳へ行ってしまうと中枢神経白血病になってしまいます。

私は、首まできていたらしいのでギリギリでした。

1回目ほどではなかったが、1回目の痛みのトラウマを刻んだおかげで、針をさす瞬間まで恐かった。

 

IVHの糸を抜きカテーテルを抜いた。肩が軽くなるような感じがした。

肩の荷が降りるとはこの事か・・・?(違うけど)

すぐに外れないようにするため カテーテルを縫うのではずす時は、

糸を切ってもらいます。

IV13って言われていたので、聞いてみると、私は身長が165cmなので、

胸の静脈から13cm入っていると聞いた。

 

とりあえず退院が許される。

1ヶ月治療し、1ヶ月休養 そしてまた1ヶ月の治療この繰り返しを

化学療法は5回続けます。抗がん剤がそれぞれ変わり、(白、赤、青、黄、白)の順

抗がん剤は人それぞれで効果が違うので注意!

家に帰るのが待ちどうしい感じだった。

 

翌日、学校は運動会だった。もちろん学校へ行った。

学校には1日も休みたくはなかった。この時は、自分には時間がもうないと思っていたから。今までと違う風になりたくなかったので自分から白血病だと言う事を言った。

もちろんクラスの人は先生や友達が口止めしていたらしいが。

みんなには迷惑をかけちゃったのかなぁ!けど私は言ってよかったと思っている。

新入生と誤解される。クラスの友達との第一声「俺、白血病になっちゃった!」みんな唖然・・・。

 

 

9月中旬

退院して初めての外来。その時に入院の受付とともに、金子医師からプレゼントを貰う。紙を1枚。突然のマルク。心の準備が全然できず、信じられなかった。

この後、本当にやるのかよ〜ってな感じで。

「はい、プレゼントあげるよ。」と言って渡されたのが、骨髄穿刺の紙だった。正直、心で泣いた!

 

友達と帰宅中、車にぶつかる。

車の右ライトを壊し、自転車小破。

自分の運も捨てたモンじゃないな!

と思う。

 

2週間、自宅で過ごす。やっぱり飯は寿司だった。

生禁はある意味つらい。バイトの先輩がケーキをたくさん買ってきたんだけど、

生禁だったので、食べられなかった。冷蔵庫にも入らないし、捨てるのはもったいない。

最終的には、夜勤の看護婦さんのおなかの中!まぁそれも良かったのかも知れない。

本当は、看護婦さんや医師には物をあげてはいけないんだけど。

入院中はなま物禁止なので、たらふく食べた。

10月前半

2回目の治療が始まる。IVHと骨髄穿刺と腰椎穿刺の3セットをやる。

これを私は、地獄の3セットと呼んでいた。入院の時と退院の時、そして寛解の時には

マルクとルンバ―ルをやります。

以下骨髄穿刺をマルク、腰椎穿刺をルンバール

と呼びます。

 

抗がん剤(赤)を入れる。

死んだ血液は、尿として排泄されます。

なので、尿も赤くなるんです。

 

抗がん剤にも色々なモノがあり、人それぞれで効く効果というのも違います。

薬の量なども体重や身長、効き目によって決められるそうなので、サバは読まないほうがいいでしょう。

 

吐き気や嘔吐。尿の色の変化。

気持ち悪くなる。

10月

2週目

初めてクリーンルームに入る。

抵抗力が低くなるため、感染しないように、部屋に入った。

クリーンルームに入ったら、部屋の外には出られません。しかし、電話や水洗トイレ

があるので、便利でした。尿は流さず、別のところにためていました。

部屋の外には、赤松が見える。赤松が私の友達だった。クリーンルームには電話がついていた。

友達にかけまくった。

 

熱が出る。

血液のデータが500ぐらいまで下がるので、少しのほこりでも、熱が上がって

しまいます。

面会など少しの時間でも、消毒、殺菌して白衣で入ってくる。それでも熱が出でしまう。

 

姉がゲームボーイポケットを買ってくれた。マリオのピクロス2にハマる。

当時は自分でテレビを持っていったので、何時間見ても電気代しか取られませんでした。

なので、ゲームやテレビはたくさん見ました。ちょうどその時、「ガンには抗がん剤が効かない」て本が話題になって、がんセンターで見たのでひいたのを覚えています。

暇つぶしにSFCのゲームをやっていた。

部屋から出られないので少しさびしい。

10月後半

個室にうつる。看護婦さんがいる時は、きわめて明るく勤めた。

一人の時は、妙にさびしくなった。家に電話を毎日していました。テレホンカードが

ある時は、1枚で友達とよく話していたのを覚えています。

佐久間氏、山田氏、三森氏、私の雑談を聞いてくれてありがとうございます。

夜、隣から泣き声が聞こえる。

私もああなる時があるのか〜と思いつつ就寝。

 

主治医とこれからの治療が話される。化学療法では厳しいので、早いうちに

骨髄移植をやる事を言われる。

先生は「化学療法で治る人は1人いるかいないかなんです」っていたのを覚えています。

これで何となく、化学療法では治らないんだなぁ〜って思いました。

「君と白血病」を読んでいたので、何を言っているのかが理解できた。

両親と一緒に相談。

 

1時退院を許される。もし、大丈夫であるなら退院できる事になっているの。

3日間、IVHが入ったまま帰宅。

もちろん薬も続いている。

11月前半

文化祭で映画らしきものを撮っていた。学校へ父と一緒に行く。

さすがに一人で自転車に乗っていく事は出来ません。(やれば出来たと思うけど)

コケたらきっと、ぽっきり折れちゃうでしょう。

友達に会いに行った。

やっぱり和む!

 

マルクとルンバールをやる。

だいぶ慣れた。

 

IVHを抜き、退院が許される。

2回目の治療が終わった。

 

 

11月初旬

退院した次の日から高校に登校。授業がさっぱりわからない。

1日、寝坊をして起きられない日があった。母は、起こさなくてもいいだろうって

起こさなかったけど、私は激怒しました。自分にとって、1日でも無駄にしたく

なかったから。母の方が正しかったのに、あの時は怒りだけで、後はなにも考える

余裕がなかったと思います。

このときの感覚は、1日でも、惜しかった。シャバの空気はやっぱりうまい!

 

HLA検査を家族6人やった。小児慢性疾患保険が利きません。一人2万円

HLA検査で誰か合わないと、骨髄移植は出来ません。

合わないときは、骨髄バンクに登録するしかないでしょう。骨髄バンクも保険が

利かないので、このHLA検査はとても大事な検査になります。 

HLA検査で白血球の形が同じかどうかを調べます。兄弟は4分のT 両親なら10分の1だったかな?後ほど説明します。

 

スキー林間の時期。この時、母は無理の1点張りだった。

この時言ってしまったのが、「俺には時間がないんだ!」

母には本当に、精神的、肉体的にも苦労させてしまいました。

この場を借りて、ごめんなさい!

 

この時は行かないと思っていた。

だけど日が迫ってくるにつれ、行きたくなる。

母との口論のあと、金子医師の判断に任せる。

コケたらダメだよ。という条件でスキー林間

3日ぐらい前に行く事になった。

とてもうれしかった。

11月中旬

スキー林間に出発。新幹線で行く。

見学なんてこれっぽちも思ってなかった。

 

2日目、バリバリ滑りまくった。もちろん転んだりしたけれど、

本当に楽しかった。許してくれた両親に感謝!

スキーのインストラクターにまで、白血病である事をいった。

何より、白血病になってしまった事は恥じゃないと思っていたし

自分自身の気持ちまで、私は病気だって思ってしまったら、マイナスの事しか

考えられなくなってしまうんです。周りの人の理解があって、隠すという行為を

やめてしまえば、白血病だって元気になんでも出来るんです。

この時は本当に生きたって思えるほど楽しい思い出になりました。

白血病との戦いそれは、「自分との戦い」でもあると思います。

いつもはバンダナをしているんだけど、悪乗りで、みんなでガンつけて写真をとる時、バンダナをとってしまいました。その後、学校で写真を見ていると「うぉっ誰だよ、ヤクザが写ってるよぉ!」て言うもんだから、どれどれと見てみると私でした。(笑)いつもバンダナか帽子だったから。

 

麻雀を覚える。4人麻雀で朝2時頃までジャラジャラと。

 

賭け麻雀はダメです。いけません、役満狙いが男でしょう!なんて、この時はうる覚えでした。

 

HLA検査の結果が出る。姉が一致したとの報告。姉1人と兄貴2人私が1番した。

この時は、HLA検査の事はまったく考えていなかった。

後になって、自分は幸運なんだなぁ〜て思う。

長男と次男でHLAの型が一致との事なので、

兄が白血病になっても大丈夫って事なのか?

家の兄弟は運がいいんですね!

 

外来でマルクとルンバールをやる。

やったあと、午後に授業を受け帰宅する。

胸がジンジンする。このジンジンが1週間ぐらい続く。

 

この時は、前の日に宣告があったので、

心の準備が出来た。だけど、麻酔を刺すところまで、心臓バクバク!

 

学校で具合が悪くなる。

保健室で休む、保健室の先生がこれまた、優しかった。

理性があって良かった。って言うか、そうゆう

じょうたいじゃ〜なかったけど。

12月初旬

3回目の入院が決まる。

病院へ行く朝、山田うどんで食事するのがパターンになっていた。今食べると、この時の心境になる。

「これ食べたあとはマルクか〜。」って!

 

マルクとルンバール、IVHの3セットが始まる。だいぶ慣れた。

最初のマルクは1日動けなかったけど、2回目・3回目となるうちに30分ぐらいで歩けるぐらいになった。でもルンバールは絶対安静3時間だけど。

 

 

12月初旬

とうとう3回目の治療が始まった。

抗がん剤(青)いれた。

抗がん剤の中では、青が一番きつかったような気がします。出るものが青だからなぁ〜。

トイレの臭いがなんか変だったのを覚えている。

ファンキゾンと言う、腸をきれいにする薬(だったかなぁ)が強烈にまずい。

3回目になり、ようやく飲むコツを掴む。

入れた後、看護婦さんが「尿が緑っぽくなるけど気にしないで。」言ってたんだけど、出してみると無茶苦茶、青じゃんってビビっていました。青い尿を出すなんて、本当に貴重な体験だ!

 

嘔吐する時の感覚を覚えた。大抵、吐く前には何となくわかる様になった。

唾が水みたいになり、ゴクゴク飲むような感じになると、もう吐いたほうが楽になる。

吐くときは、何か飲んだ方がいい。何も飲まず食わずだと胃液のすっぱいのだけだから

かなり辛くなるので。

吐いたあとは、うがいをしましょう。

口の中に胃酸が残っているので、歯が黄色くなったり、歯が溶けちゃったりするので。

 

担当看護婦の岩村さんに足を洗ってもらう。とても気持ちいい。

看護婦さんも大変だなぁ〜なんて思います。

 1度、シャワーの順番になった時、「背中流そうか?」なんて言ってくるものだから

「お願いします!」って違う想像をしちゃって、看護婦さんってそこまでするの?

と考えながら、着替えをしてタオル1枚になると岩村さんがきてドキドキしていると

エプロンを手に取り、さぁ、洗おうか!って。

 あぁ、そうゆう事ね、ってがっかりしたことがあります。

(俺って一体なにを考えているんだか<笑>)

私には担当医の、金子先生と佐竹先生と

担当の看護婦さんの岩村さんの3人が色々な面で、助けられたし、3病棟の看護婦さんも

みんな優しかったので、良かったです。この場を借りて、深く御礼申し上げます。

12月中旬

クリーンルームへ入る。

愛しの赤松と再会。(暗っ!)

クリーンルームはとても綺麗な個室って感じなので、すごし易かったです。(電話もあったし)看護婦さんに、スキーに行ったことを自慢!

 

熱が下がらない。

食欲もなくなる。

この時は何も食べ物が口に通らなかったので

サクマドロップを1日中舐めていました。

 

佐竹先生がアメリカに行く事になる。お別れ会をやった。

この時に、特別にクリーンルームを出ました。

岩村さんがきてくれた。やっぱりうれしい。

生禁なので、団子が食べれなかった。

ありったけの団子をもらう。

12月24日

クリーンルームにサンタクロースに化けた先生がきた。

 

こうゆうイベントが院内にあるというのは、

なんかいい感じ。久しぶりに部屋の外に出た。

 

クリーンルームを出る。

院内だけど、部屋から出れたので

開放感があった。

朝5時起床、6時に検温、7時に朝食

8時に採血、先生がきて、10時にはお風呂やシャワー。出るとガーゼ交換、12時には昼飯

午後は検査とかある日は検査。ない日は、1時間に1回のうがいと日に3回ぐらいのネブライザー。夜は家や友達に電話して1日が終わっていました。

12月終わり

正月ぐらいは家で過ごしたいと希望。外泊許可を3日とる。

色々と先生には、贅沢を言っていました。

1月T日

12時を過ぎ、近くの神社にお参りに行く。

毎年、破魔矢をもらいにっているので今年も逃せないと気張りずつ

お願いはやっぱり、「治りますように」でした。

お参りの途中、佐久間氏に出会う。話しているうちに意気投合!家に書置きを残し、佐久間氏の家で「ぷよぷよ」を一晩やり明かす。(点滴が入っている状態)初日の出を見て、願掛け!

こっそりと家へ帰る。

 

やっぱり家は落ち着く。布団もふかふかで、何だか新しい臭いがした。

ここが私の居場所だなぁなんて考えました。

やっぱりこの日は寿司でしょう。生禁のうさばらしです

たまったジャンプとサンデーを読みあさる。

2日間読みまくった。

 

マルクとルンバールをやる。もう慣れた。

佐竹先生がアメリカへ行ってしまったので、マルクは、金子医師がやる事になった。佐竹先生は

女性だったので、針を押すのが恐くわなかったんだけど、金子医師は腕っ節、強そ〜だったから

正直、不安でした。あんまり変わんなかったけど。

 

 

肩からのIVHを抜き、3回目の

治療も無事終わる。

 

 

 

1月初旬

退院して次の日、学校へ行く。

外の感覚を堪能する。

麻雀をやる事が多かった。

1月下旬

外来でマルクとルンバールをやる。その後、学校へ通う。

この日は、病院へ行ってから学校へ行った。私は勉強好きではないので、友達に会いに行くのが目的でした。

 

3日に1日のペースで病院に通っていました。

今思うと、けっこうなペースで外来に言っていたんだぁな〜って思います。

2月2日

誕生日を迎えた。

生きて誕生日を迎える事に、よろこびを感じるとともに、不安にもなった。この時17歳

2月中旬

入院日が決まる。

とうとう来たか〜って思いました。

 

入院する前の日、「めぞん一刻」

を一晩かけて見た。

この時よく見ていたのが、「めぞん一刻」面白すぎます。

私は、ハマりました。

 

4回目の入院!

この入院で骨髄移植をすることになった。

マルク、ルンバール、IVの3セットをやりました。IVが違う所に入っちゃって、レントゲンを見ながら入れる事に。

IV入れまくったので、胸の静脈がごちゃごちゃで入りにくくなっていると言われました。

2月21日

 

骨髄移植の準備表を渡される。

 

移植するにあたり、細菌や感染などに無防備になるので、体の中を綺麗にする作業と自分の骨髄を何倍もある抗がん剤と放射線によって、壊す作業を、1週間かけてやります。

2月22日

次の日、膀胱環流(ぼうこうかんりゅう)をやる。

入れられる気分がわかった。(笑)

看護婦さんに「何ですか?」と聞くと、「その名のとうりだよ」といわれた。何だかヤバそ〜と思った。

 

起き上がれない。腹部が痛い。

膀胱の中を1時間に1本の点滴で常に流される。お腹が張っている感覚が常にあった。

2月23日

ようやく起き上がれた。

しかし、慣れとは恐い・・・。

2月24日

ようやく外れた。なんだかすっきりとする。

膀胱環流の間は、部屋から出られないので、やっぱり廊下に出れるだけでも良いもんです。

2月25日

抗がん剤を入れ始めた。

赤と白の抗がん剤だったかな?

詳しくは覚えていませんが、結構入ったと思います。

2月26日

この日も抗がん剤を入れた。

明日から放射線が始まるが、ドナーが

事故、移植を一時中断。

 

岩村さんに、「事故っちゃいましたね。」

って言ったら、「泣きたいときは、泣いても良いんだよ。」って返ってきました。

看護婦さんは患者さんの事よく見ているんだな〜って思いました。

この日の夜、母宛に電話がなる。

凄く嫌な予感がしたのは今でも良く覚えている。案の定、ドナーである姉が、バイクで帰宅中、事故に巻き込まれる。

この時は、姉の事が心配だった。移植どうこうよりも。この想いは誓っても良いですが、

母は朝一で運ばれた病院へ行きました。

 

この夜は泣いちゃいましたね、これまでの治療とかを思い出して。

2月27日

姉が朝食を嘔吐する。どうやら脾臓が破裂しているらしいとの事。

緊急手術、脾臓を摘出する。

 

手術成功。

ちゃんと、夜でも検査はしてほしかったです。

危うく、命を落とす所でした。

母方のおじいちゃんが亡くなってか、間もないので、正直、もう亡くなる人は見たくないな〜って思いました。

2月28日

無菌室に入る。

データが0になってしまったので無菌室に入る。出来る限り、早く移植をしなくてはいけないため、骨髄移植は継続される事になる。

 

 

3月1日

無菌室から放射線治療をうけに、地下1Fまで

降りる。放射線治療をうけるときは、少し長いので音楽を持っていってもいいので、友達に作ってもらったテープを持っていきました。

帰りには震えが止まらず、熱も40度以上、

急激に上がってしまい。まさにダルマ状態!

アンカー3つに掛け布団3枚でも全然震えが止まらなかったのを覚えています。

私は声優とかアニメの主題歌とかが好きで、寛解中にテープを作ってもらっていました。

放射線治療中、そのテープを持っていったわけだけど台に乗るときに中身の事を思い出して、(遊びで1曲目にムーンライト伝説を入れていた事)やべぇ、と思ったときにはときすでに遅し、あれは拷問でした。(笑)

3月

次の日も放射線治療をうけに、下に降りる。

当初は抗がん剤を入れた後、放射線を1日2回を2日でやるはずだったのですが、トラブルで無菌室から1日2回の所を1回で当て(計1時間)それを2日やりました。

前日の失敗はもうしませんでした。

この日も帰りには震えが止まらなくなっちゃって、熱も跳ね上がるし結構疲れました。

姉が、がんセンターに転院。輸血を受けてしまったため、時間が切羽詰っていました。

 

ファイナル ファンタジー7を12時頃までやった。最初のチョコボで渡るところで出てくる蛇みたいな奴を倒すために!

隣の部屋に入っている人に激励される。

エアリスをこれほどか〜ってほど鍛えたのに

途中のイベントで上からセフィロスが降ってきた瞬間、えっ!マジか〜てなもんで、

悲劇のヒロインになっちまいました。

この時は、ちがう意味で泣きました。

3月7日頃

骨髄移植。

姉の骨髄液を採取し、私に移植しました。

移植といっても、輸血みたいに流れてくるので

患者さんは痛くはありません。

3月中旬

鼻血が出る。のどに流れてくる血を

ゴクゴクのんでいる内に、気持ち悪くなり

吐血する。紙コップ2杯。その後鼻に止血剤を

つめる。喉がやられて、声が出せなくなった。

この日から、痛み止めの点滴、ビタミン

薬、など色々な薬が入る。

この時から、ゲームをやる気力がなくなる。

コーラーが水のように感じる。

 

薬やうがい、食事など食べられなくなる。

1ヶ月ほど眠りに入る。

1日で、おきた回数が2回だった

ふ〜とをあけるとウゴウゴルーガがやっていて、目を閉じて、また、目をあけると5時ぐらいにやっている、ドラゴンボールがやっている。、また目を閉じると1日が終わっている状態!

4月中旬

自分の力じゃ立てないくらいに、衰弱していた。吐血の時から食事はとっていなかったので。ようやく無菌室から出る事になった。

個室に移る。(初めて車椅子を使った。)

地球の重力を感じた。自分の背中にこなきじじいがのっかているんじゃないかって思うくらいに

体力が落ちていた。

 

ジュースのタブやペットボトルのふたが

鬼のように固く思える。

痛み止めの量を減らし始める。

歩く事すら、ままならない。

普段気にしていなくても出来た事が、出来なくなったときはじめて、その有り難味がわかるんだな〜って思いました。

 

味覚が吹っ飛んでしまったので、

調子になってキムチを食いまくる。

最初は全然、味がしなかった物が食べまくっていたせいで、辛さが敏感になってしまった。

バランスよく食べましょう。

今でも、辛いものは敏感なままです。

甘さも少し鈍く感じられます。

 

無事、大部屋に移ることが出来た。

無菌室の中の事は、ほとんど覚えていませんでした。岩村さんと大久保さんが来てくれたことぐらいです。

5月初旬

最後のマルクとルンバールをやる。

これでマルクとは縁が切れそうだ。

金子先生が、「今回は痛くない方法でやるから安心して。」と言って、イソジンを塗り始める。

布を引いて、「1番楽しかった事を思い出してみな!」ととっさに言われ、「ス、スキー」て答えて

いる内に針を引かれ、「うっ」。

終わった時に「痛くなかったろ」と言い、去っていきました。 痛いに決まっているだろ〜!

 

IVが抜かれる。肩の荷が降りたように

肩が軽くなった。

2ヶ月ぶりで外に出られるので、わくわくしながら、退院の手続きをする。

5月のGW

退院

外の空気はうまい!

 

5月初め

高校3年となり、クラスが変わっていた。

知っている人もいたが佐久間氏や三森氏と

違うクラスになってしまった。

なんていったら良いか、とても不安になった。

自分のクラスなのに、

部屋に入るのが、とても

恐かった。

誰!って視線が、恐かったから。

 

2年の時の友達の近くにいつもいた。

2日に1度、病院で点滴をうけに行き

午後に授業に通いに行く。

この時には、放射線治療の副作用で、舌の表面のブツブツ(味を感じる所)がなくなり、味覚が変になる。

(退院前に、面白いほど味がしないのでキムチを

たらふく食べていたら、辛いものが敏感になってしまった)

 

口の中に水泡ができるようになる。先生はつぶさない方が

良いと言っていたが、水泡ができると口の中に違和感が

するので、たまらなく自分で鏡をもち、楊枝で水泡を

1つ1つつぶしていた。ペットボトルや缶の蓋が

自分の力では、あけられなくなる。

ご飯を食べるときに、「あっ!」って思っては、楊枝と鏡

を持っていた。手鏡はいつも携帯していた。

 缶のタブを開けるのも、手鏡の裏であけていた。時には

シャープペンシルで開けていたときもある。

6月

お風呂に入っていると、ふと自分の爪がふやけているのに

気がつく。奥の方が(ささくれができる所)完全に浮いてて

爪がふやけちゃったって、家族のみんなに見せびらかしていた。両手両足の爪の色が変わる。

前から、爪がはがれると聴いていたので特に驚きもしなかった。自分の中では「貴重な体験だ!」と思っていたが

周りでは違ったらしい。これも、放射線治療の副作用です。

足の親指の爪が根元から取れそうだった。げぇ〜と思い

ながら、自分ではがす。綺麗にとれた。「変な気分だ」

7月

だんだんと、目が開けられなくなる。開けようとすると

痛みが走り、帰りの自転車では感覚のみで帰った。

がんセンターの眼科に通うようになる。

目やにがよくでる。口内炎がひどくなる。歯が溶け始める。

唾液が出る事により、口の中が中性に保たれます。

唾液が出ないと、口の中が酸性のままとなり歯が溶けてしまいます。キシリトールガムなどを食べると良いでしょう。

がんセンターの眼科にいったら両目結膜炎と診断。

目薬を処方される。(4種類ぐらい。)

この時に喉のあたりまで、全身に放射線があたっていたので

唾液と涙をつくる所がせまくなってしまった。

涙はほこりから目を護るバリアーです。涙の量が激減すると

目に激痛が走り、目を開ける事が困難になります。

8月

顔に、炎症ができる。(パンダみたいな)

さすがにへこむ。けどしょうがないと思い、

気にせずに高校に通う。やっぱり学校では居場所が

見つからない。

これは、肝機能が悪くなってしまうと顔に炎症が

出るみたいです。

さすがの私でもへこみました。

9月

いつもどうり、高校へ通う。

休み時間に、ふと違うクラスの人が入ってきて 窓際に

行くのが見えた。次の瞬間、耳に入ってきた言葉に

ここがどこか、疑った。「ゾンビー今日は来てるジャン。」と

この言葉で私は、高校へ行く事をやめてしまった。

「何も知らない人にとっては、私はゾンビーにしか見えないんだ。」ここは高校か?とても痛かった。心が。

ここで学ぶ事はなにもないな!と見切りをつけて…

 

薬も何も飲まなくなった。っていうより、何もみえなく

なった。

 この頃、「パラサイト イブ」の漫画本を見ていた。

何となく、似ているなぁなんて思った。

結構、学校へ行くのも楽じゃなかったので

午前中は10時まで寝てて、日の当たる場所でボ〜っと

してて、午後の下校時間を狙って、近くの本屋へ友達を

張っていた。そんな生活が長く続いた。

10月

薬を飲んでいないのを、主治医にバレた。肝機能のデータが

ALP1600を超えていた。

「このまま君が薬を飲まなければ、死ぬよ!」

と主治医は激怒。この時、目がさめた。

何のために治療してきたんだろう。

誰のために生きているんだろう。

なぜ、私はいきているんだろう。

そんな事を考えていた。

12月

大雪だった。さすがに、この雪だと奴らもかったり〜とか

いって、こねぇ〜だろうと思い、学校へ行く。

予想道りだ!制服着るのも久しぶりだ。

クラスの人の半数は休みだったので、楽しかった。

1月

神社へ、初詣に行った。

この時の願いは「再発しませんように!」。

佐久間氏の家にそのまま泊まりに行く。

朝日の出を見て、家へ帰る。

この夜、鉄拳3のキングのローリングクレイドルを

マスターする。この時がキングの絶頂期だ!

 

学校が始まる。この日は文集を作ることになった。

どんなのにしようかなぁ〜1ページではとても語りきれない

し、かといって高校生活で一番の思い出といったらやっぱり

闘病生活になってしまう。(10歳ぐらい歳をとちゃうぐらいの体験だから)悩んだ結果「空白の1年間」という題名に

なった。(暗すぎる)

やっぱり、高校3年生の時に学校へ行った日数が75日

だったから。今思うと、もったいないことをしちゃったなぁ

なんて思います。

 やはり、半ページでは私の体験は全然あらわせません

でした。なんていったて、発病から骨髄移植まで書くので

1万650文字もあるんだから!

3月

吉川高等学校を卒業する。

校長先生が私のことを触れてくれたので、とてもうれしかった。嫌な事も、このことで帳消しかなぁなんて思う。

文集やアルバムをもらって帰る。

高校の卒業アルバムは見たくない一品だ。

顔の炎症ができているので、アルバムを封印する。

文集の自分の奴を読んでみた、何が何だかで封印する。

5月

寛解1周年。目と口それに皮膚に肝機能

目はコンドロン点眼液なしでは、日常生活ができないし

口内炎もやっと、醤油が大丈夫になった。他の調味料は

全然ダメ。はっきり言って痛すぎる。

顔の炎症も変わりがなく、赤いし

爪は元には戻らない。腕とかもカサカサだ。

これから、私はプー太郎生活に入る。

病院にも、1週間に1回。小児慢性疾患の手帳があった

ので、治療費や薬は公費で何とかなった。

この時、18歳。

 

 

1998年

週1回の通院。

血液科、口腔外科

1ヶ月に一回、がんセンターの

皮膚科、眼科へ通う。

ここから、歯医者に通い始める。

私は、ムチャクチャ歯医者が嫌いだ。

でも、口の中がシャレになってないので

しょうがない。

 

前歯の仮歯を作った

かみ合わせが だんだんなくなってきた。

 

顔の炎症は、なぜなったのかが わからなかった。

皮膚科に通うのをやめる。

顔の炎症は、結構厳しいものだ。バイトの面接を

落とされる。1回目の挑戦!

 

奥歯を5本抜歯。スースーするし、親知らずを取る時

「バキバキッ!」ってなった。

痛くはないが、あごがちょっと疲れた。

かみ合わせがきつくなってきた。

歯もだんだん溶けてくるし、ちょっとヤバイかも。

 

奥の歯茎が腫れて、歯が見えなくなった。

これは、なんだか悪い歯の例より悪いかも知れない。

辛いものが敏感になっていた。

1欠片の唐辛子でも、痛くってしょうがない。

 

気がついたら奥の方の腫れていた歯茎が気にならなくなって

いた。手で奥の方を探ってみると、黒いものが?

しかも膿んでいる。腫れていた歯茎が腐っていた。

ちょっとビビッタ。

毎日痛いせいか、その痛みが普通の感覚になっていた。

慣れとは恐いものだ。

まさか腐るまで気がつかないとは思わなかった。

腐った所をとると、下には新しい歯茎があった。

 

両親と回転寿司を食べに行った。

マグロの赤味を食べたら(もちろんさび抜き)

喉につまさせてしまった。詰まると、飲み込もうとすると

「ぎゅるる」って音がした。さすがにやばいと思った。

吐こうとしても吐けないし、すごい気持ちが

悪かった。最後は吐けた。

 

熱が下がらなくなり、入院する。

一週間ぐらい。佐久間氏に電話し、愚痴を聞いてもらった。

「おれ、ここから飛び降りるかも?」って。

今、思い出してみるとかなり厳しい事をいったなぁ!

佐久間氏ごめんね。そしてありがとう。

なにも言わずに聞いてくれて!

看護婦の原田さんに、愚痴を言ってしまう。

「死んだ方が楽だったかもしれない。」って!

この時は、何も考えられなかったと思います。

移植後の副作用が日に日に出てくるから。

だんだん体が壊れていくのがわかるから。

1999年

1月元旦

毎年恒例の神社のお参りに行く。

この時のお願いは「再発しませんように!」と

「あわよくば素敵な恋が出来ますように!」でした。

この年から、佐久間氏と行く事が恒例となった。

やっぱり帰りはお泊りで日が出るまで、ゲームを

やってました。

初日の出がでたら、土手に行って叫ぼうと言う事に

なったのだが、佐久間氏は爆睡。

どうしようか迷って、その日は仕事だったので

起こさないで、自分の家に帰りました。

 

この年は、絵にはまる。イラストボードを買ってきて

よく、絵を書いていた。

書きたい絵をまず拡大コピー そしてイラストボードに

貼り付けて、ペンでなぞっていく。

なぞり終わったら、コピーした紙をとって

イラストボードを光にあてる。そうすると、絵が浮かんで

くるので、それをなぞる。そして、色を絵の具で塗れば

完成。そんなやり方で書いていた。

 

兄弟によく、「俺が食わせてやってるんだから」って

いわれるようになる。そういわれるたびに、私は

バイトの面接にいった。バイト先ではいつも決まって

「がんばって治して」だった。

兄弟や母は、私のことを「病気というのに甘えている」

「もう治っているのに、家でゲームばっかりして」

そんな風にしか考えてないようだった。

こうゆう風に言われるたびに、自分が情けなくなった。

病気になる前は、バイト代の中の5万を家に入れていた。

バイトの先輩は15万中の3万、私のバイト代は7万だった。

バイト代全部取られた事もあった。

この時はさすがにキレた。母には「授業代とか返せ!」

って言われた事もある。この病気にならなかったら

もう、この家にはいないだろうと思う。

(その入れていたお金が何に使われたかは書かないで

おこう。あの時のことはもう忘れたい)

 

郵便局の募集に応募する。

埼玉大学へ試験を受けに行った。

少ないと思っていたが、行って見るとムチャクチャ

多かった。臨時バスが出るほど!

結果は落ちた。けど私は、結果よりもそのプロセスが

大事だと思います。一歩進めた気分がしました。

まだ、社会復帰ができるって思えました。

 

口腔外科へ行くのをサボってしまった。

 

一度サボってしまうと、なかなか行く事が出来ない。

松木歯科を紹介される。

この時は、断った。

 

佐久間氏 山田氏と一緒に夏の旅行を計画する。

当初は「富士山登頂」だった。

さすがに私は無理だろうと思っていたが

富士山に決定。まぁ、なるようになるだろうと思った。

計画日に大雨が降ったので、行き先を筑波山へ変更する。

正直、ほっとする。

 山でのルールは、あいさつです。道りすがりの人との

挨拶が気持ちよかった。無事登頂!

 

自転車からコケて、左腕の骨にひびが入る。

コケたあと、佐久間氏の家に遊びに行く。

餓浪伝説系をやっていて、最初は無理だと言ったが

「こんなので折れるわけないだろ?」と佐久間氏。

私はギースを使っていた。

技を出すたびに、左がビリビリけど

レイジングストームを出せたのが、奇跡だった。(笑)

 

全治1ヶ月だった。(笑)

朝起きると、左腕が固まっていた。

自分では、腕を伸ばす事が出来ない感覚です。

移植後は、骨がスカスカ(骨粗鬆症)になってしまう

症状です。

 

佐久間氏にスキーを誘われる。

会社の人に、空きができたそうだ。

 

視界がゼロだった。っていうか吹雪いていたから恐かった

思うように体が動かないし、ドライアイになってしまった為

目も開けられない状態。目薬も固まっちゃうしピンチ!

午後は別行動をさせてもらった。現役までは感覚を

もどした!

 

3日間、全身筋肉痛!1日目は動けなかった。

普段から動いてないせいか、前日のスキーは

いつもの20倍ぐらい動きました。

なって当然かも。

 

松木歯科へ通うように勧められる。

小児慢性疾患が効くというのが、行く決め手だった。

白血病による、歯の損傷なので小児慢性疾患が効きました。

歯の治療は公費でまかなわせてもらいました。

2000年

毎年恒例の神社の初詣!やはり佐久間氏といく。

帰りはやはり、初日の出ゲーム!

去年できなかった、土手での叫びを実行する。

とても気持ちがよかった!

 

成人式へ行く。

何気に、タイムカプセルを掘れると期待していたが

どうなったんだろう?その中のテープに「20歳になった

私へ」と言う題で、メッセージをいれました。

「20歳の私へ、はたちになりどうなっているかわかりませんが、がんばってくださいね!」と入れました。

 自分にまで、励まされていたので できれば聴きたかった

です。

成人式、すごく緊張しました。

何だかみんなかわったなぁ〜って「浦島太郎の気分でした」

人の多い所はめったに行かないので、すごく苦しかったです

はじの方で座りながら、ジュースを飲みまくりました。

気を使ってくれる人もいましたし、友達にも逢えたから

行ってよかったです。私が白血病であることは、中学時代の

友達には言っていませんでした。だから、見た目は

アトピー性皮膚炎!もうそれでいいやと割り切ってました。

 

姉が結婚をする。

痛い想いをしてまで、私を助けてくれた姉には

幸せになってもらいたいものです。

 

眼科へ通うのをやめ、血液科で目薬を出してもらう。

1週間でコンドロン点眼液を7本

1日一本ペース。点眼はもう、プロ級になった!

多いと思いますが、これでも我慢してです。

放射線による、涙液分泌低下症になってしまったので

涙の大切さが身にしみるほどわかりました。

涙が出ないと、目がとても痛くなります。

目薬をつけると、痛みがなくなるん

 

歯医者で、総入れ歯を作る。

まだ、歯茎は真っ赤!小児慢性疾患が効くうちに作った

方が良いという事になったので。

 あと、はやく噛めるようにするため。

はっきり言って、シャレになってなかった。

口内炎を抑える薬が体にあわなくて、なかば強引に

作りました。かなりしみるし、唇のはじが切れるほど

やったので厳しかったです。

 

20歳で入れ歯かよぉ~っとへこむ。

20才で歯は1本も残らなかった。

歯はとても大切なので、しっかりプラークコントロール

しましょうね!

 

満20になり、小児慢性疾患が切れる。

保健所に継続できないか、話を聞きに乗り込む。

そういうケースがなかったため、継続は無理との事。

電話でもアタックしてみたが、「お気の毒様」

正直、ぶちきれた!(怒)

3月

医療費が15000円だった。いつも公費だったので

いざ、値段をみてビビる。

採血して、診療して1週間ぶんの薬をもらって

帰るのに2万近い。何とかできないか相談するが

無理との事。「別の市では継続する事も出来るが…」

とか言っていたので役所に乗り込む。

 

第1回 市役所突入計画発動!

目的は「小児慢性疾患の継続」

保険の担当の人と話をした。

全部話した結果、市では出来ないと言うことだった。

納得がいかなかったが、一時退散する。

結果、敗北。

 

小児慢性疾患手帳を保健所に返還する。

20才でいきなり社会に放り出された。

ドライアイや口内炎で、日常生活すらままならない俺に

どうしろと?どうする事も出来ない自分が情けなくなる。

 

第2回 市役所突入計画発動!

目的は「特定疾患への格上げ」

ならば、特定疾患ならどうだと担当者とお話する。

結果は敗北。昔は、特定疾患にあったのだけど

骨髄移植があるので、削除されたとのこと。

帰りにかんがえた!

「骨髄移植は誰しも受けられる治療法じゃないんじゃないか?」って。せめて、遺伝子治療が確立するまで

待ってもらいたかった。市役所に不安を抱く。

 

熱が38℃をキープして下がらなくなった。

なんど解熱剤を使っても、熱が下がらない。

担当医に電話をし、入院する事になった。

 

入院する日に、佐久間氏が遊びに来ていて ビリヤードを

やっていた。(ゲーム)私は、38℃ぐらいなら

頭がボーとするくらいで、体には何も出なくなりました。

(慣れって奴ね!)けど、1週間も気がついてみれば

出ていたので、主治医に電話したんです。

すると、明るく「じゃあ、今来てね!」と一言。

へ、入院?マジ?ってな感じで病院に行きました。

 

入院!

点滴中、赤い斑点がぽつぽつと出てくる。

時間がたつにすれ、体全体までなった。

これもGVHDとの事だった。

 

口の中が、カビで一杯になった。

初めは、小さな白い点だったのが翌日になると

口の中が真っ白!正直ビビった。

 

原田さんに会った。その時、前に愚痴ってしまった事を

聞いてきた。「まだ、死んだ方がよかったんでしょ!」と。

原田さんはきっと、助からなかった人たちを一杯見てきているから、私が言った言葉は許せなかったんだとおもいます。

それが痛いほどわかったから、「生きているほうが幸せです」

って、返事を返しました。原田さん、ごめんなさい!

奥歯の鋼を取る事になり、口腔外科へ呼ばれる。

口の中がカビだらけで、なにも食べれなくなってしまったのと、舌を傷つけてしまうからです。

 無理やり口をこじ開けたので、もの凄く痛かったです。

1週間入院をし、洗濯や身の回りのことは自分でやっていました。

 退院の日、両親がこれないとの事なので電車で帰ることに

しました。着替えがなかったので、パジャマとスリッパで

家に帰れるか、検証!ちゃんと帰れました。

 

同じ部屋の人に、「目の方は障害者保険で何とかなるんじゃないの」っていわれる。退院したらもう一度行ってみよう

と、おもいました。

 

第3回 市役所突入計画発動!

目的は「障害者手帳について」

まさか、市役所にまた行く事になるとは思わなかった。

話を聞くと、「手や足がなくなっていなくては、手帳は

むり」と事。障害者にもランクがあると聞いていたので

その説明すらなかった。日常生活にまで影響するのに

なにもしてくれない。市役所の仕事って何だろう?

コケたら、折れてしまう腕なんて…とも思ったが

やめておこう。もういいや!と見切りをつける。

 

保険のシステムがさっぱりわからない。

松木歯科は、ちゃんと小児慢性疾患の継続をやってくれているのに、なぜにガンセンターはできないの?

歯科のお金は誰が払っているの?わからないことだらけだ!

歯医者さんは継続してるのに、OO市ったら!

正直、市役所や保健所は嫌がっているみたいだ!

 

 

3月から、内職を母とやっていた。

梅酒の蓋つくり!なかなか面白かった。

半年ほど続けた。

内職は、量にかぎりがあるため色々とやることが

かわってくる。蓋つくりが1番楽しかった。

 

昼にやっていた、「奇跡の人」というのが、名作劇場で

やっていた。内容は、目や耳が生まれたときから聞こえなく

ワガママし放題で育った子供に、物や言葉を教える。

というストーリだった。

それで触れていたのが「指文字」これは覚えた方が

いいかもしれないな、と思い「手話」を勉強し始める。

指文字はマスターした!手話は、もうちょっと

かかりそう。

 

また、プー太郎に戻る。

全部終わると、仕事も終わり!

 

外来が2週間に1回になる。

目薬も14本。これでも足りないくらいだ!

保険の検査官にクレームがつく。

「目薬を出しすぎではないか?」と

私からしてみれば、目薬がなければ外はおろか

家ですら、満足に歩けないだろう。

そのくらい「ドライアイ」は進行しているものだった。

 

歯の神経をすべてつぶし終わる。

歯の治療に3年かけてしまった。まぁいいや。

これで、「無神経男」になってしまったわけだ!

2001年

毎年恒例となった神社のお参りに行く。

世紀越えをしたのだが、あまり特別ってな感じじゃなかった。

初日の出がでるのが遅かった。

寒いし出ないしでいらいらしたが

家に帰るときに光を浴びたのでよかった。

 

主治医に「慶応大学病院の小川先生」を進められる。

ドライアイの権威です。

今まで使っていた「コンドロン点眼液」が中止

ドライアイには、まずいらしい。

この時、ドライアイと診断され角膜も傷ついている

とも言われた 。

「目の標本を取りたい」言われたが、あまりに痛そうな

やつだったので「勘弁して!」と拒否しました。

「まぶたの裏側を1ミリ1ミリの正方形に切開するんだけど、5分ぐらいの手業だから」だそうだ・

 

血清点眼をつくる。

血清点眼とは、自分の血液を分離し 血清を取り出して

その血清を何倍にも薄めたもの。

涙に近い液体だそうだ。小川先生開発!

おかげで、目薬を少し手から離してもいいぐらいに

回復した。(トイレに行く時とか!)

 採血を6本取るので、手がしびれる。

 

 

眼科に親がついて来た。

小川先生にストレートに「治るんですか?」と質問

その質問に、先生はこれは治りません!と返す。

まったく、何を質問してるんだ!と思った。

けれど「日常レベルまでは、回復します。」といって

くれたので、まぁ、日常レベルまで戻るんだったら

いいかぁとおもった。

この4年間、目はかなりやばかった。

朝、起きると目が乾いていて まぶたがくっついてしまう。

なので、自分の手でまぶたをこじ開けるのが日課。

だから、寝起きは最悪だった。

 朝起きると「ぎゃ〜って」叫ぶぐらいの威力はあると

思う。毎日がその調子だから、慣れとは本当に恐いものだ。

けど、慣れがなければ私は生きてこれなかっただろう。

 

兄がパソコンを買ったので、仕事に行っている時を

ねらって、使いまくっている。

最初は全くわからなかった。どこが電源?ってな感じで!

少しずつ、わかってきた。

 

インターネットで同じ病気を検索!

初めに見た人は、全く同じ病気の人ですでに亡くなっていた。

げっ!っと思いました。

この時初めて、同じ病気の人と触れたんだから。

 

掲示板にカキコ(書き込み)をはじめてする。

親切にも、お返事をもらえた。

今まで、この病気で相談できる人はいなかったから

自分で解決するしかなかった。だから眠れない夜も

数え切れないほどあった。けれど睡眠薬は極力使わなかった。

だから、大抵の事は考えたと思う。

マルクとかルンバ―ルとかで通じる人って

いなかったので、とてもうれしかった。

この時、慢性の治療と急性の治療法が かなり違うのに

気がつく。

 この病気は普通の人には重い話だと寛解中何度も思った。

ここでは、その話が普通に聞いてくれるし 時には

アドバイスをくれる事もある。

 

ネット上での、メリットとデメリットがあることにきずく。

メリット

     自分の不安や悩みを聞いてくれ、時にアドバイスなども

くれる事もある。

     ここでは、病気の話が重くない。

デメリット

     人を傷つけてしまったり、傷ついたりする。

     医師への疑惑、病院への不安が生まれる事もある。

 

 

私は、医師ではないし医学的勉強もしていない。

私が教えられるのは、経験やどんな気持ちで立ち向かうか

どんなことを経験し、私みたくならないように警告して

あげることぐらいです。

 病気は、医師があなたにとって1番何が良いのかを決め

看護婦があなたのサポートをし、あなた自身の意思によって

初めて、治療っていえるんです。

 どんなに高いお金を払っても、どんなにいい薬を使っても

あなたの「治そう!」って意思がないと、やっても無駄

なんです。そのための「告知」だと思います。

 私は、50%って言われたけれど主治医がそこまで

助かる確率を上げてくれたんだと思います。

主治医、看護婦、薬剤師、ソーシャルワーカー、栄養士、

そしてあなたの連帯によって、50%だったものが

60、70と上げてくれるんだと思います。

 癌だからってあきらめないで!やるだけやってみようよ

それでも、ダメだった時は「私は生きた!」って胸を

張って逝けるから。死は恐いと思うし、私も恐かった。

何も見えないときもあった。

けれど生きることが難しくなって、初めて「生きてる」って

形が見えると思います。例え逝ったとしても、それは

「負け」じゃない。むしろ「勝った」というべきだ!

本当の負けは、自分の心を閉ざしてしまい、なにもしないで

逝くことだと思う。

 これが、私の信念です。

信念は人それぞれあると思います。それを見つけ出す機会が

こうゆう「病気」なんじゃないかなぁ〜なんて思います。

5月

私の経験したことをHPとして残す。

 

ふと、何か形に残したいなぁ〜と思い作り始める。

 

 

HP完成♪

始めはページが繋がらなくて、考えさせられたけれど

色々とやっている内にページも繋がってなんとか

形になった。気がついた人もいるかもしれないが

HPのTOPにカウンターが入れられなかったのは

妥協しました。だから掲示板の所にカウンターがあるので

入ってもらえるとありがたいです。(爆)

 

2001年 6月

ネット探索♪(^―^)

・色々な顔文字を覚えた!

 

掲示板を入れる。

カキコやメールが書いてあった。

・やっぱりうれしいものです。やっと、時が動き始めました。

・色々な想いがあるが、カキコやメールを読んでいると

2つの想いがある事を知った。

「患者の想い」と「患者の家族や友達の想い」

 

血液科・ドライアイ科 受診

症状は変わりなし。薬も変わらず。

目薬がシビアだった。

7月

TVドラマ「マリア」を見る

これは同じ病気になった者の特権!(^―^)

何を言っているのか、どうゆう事をするのかがわかって

いるので女優さんの演技をどれぐらいうまいのか

自分の中で採点して、見ている。

 

血液科・ドライアイ科 受診

症状に変わりなし。目薬・薬も相変わらず。

8月

友達と那須高原へ行く

毎年、友達がひと夏の旅行を計画する。

ちなみに前は「富士山登頂」が計画にあがった。

さすがに私は「無理だろ〜」って思ったが

まぁ、行ってもいいかなって感じだった。

 

24時間TVを見る

毎年恒例の24時間耐久戦♪

午前2時あたりでダウン。白血病の患者のドラマがやっていた

 

血液科・ドライアイ科 受診

変化なし。

9月

趣味の部屋を増やす。

段々と本来の目的からずれてきた感じがしたが

これもまた、いいかなって思う。(^―^)

 

血液科・ドライアイ科 受診

変化なし。

10

国民年金の未納通知が届く。

正直どうしようか迷っていた。

「年金生活まで私の体は持つのかな〜?」という疑問

が頭の中に少しあったから。

 

4回市役所突入計画発動!

目的「国民年金免除請求」について

本当は行きたくはなかった。けれど何とかしないと

いけないし、とりあえず国民年金課へ相談をしに行った。

思った以上に親切な対応で、私の溜まりに溜まった

役所の不満も聞いてくれた。「免除請求」は家庭の所得者

合わせて年250万を基準として審査される。

家の家族の所得者は3人いるので厳しいがとりあえず出した。

「障害年金」というものがあるので、医師と相談をしてみては

と、アドバイスをもらう。

市役所への不満などを帳消しした。

 

金子医師と相談。

外来の時に「障害年金って言うものがあるらしいのですが?」

ときりだしたら、金小医師は「えっ君って障害者なの?」って!

「う〜ん、どうだろう?」って私。とりあえず市役所へ

行った事、話をしたことなどを話してみたら

ソーシャルワーカーの蓮見さんに予約を取ってくれた。

 

蓮見さんと相談

障害基礎年金を本で読みながら、私の症状と照らし合わせて

シビアだけど申請しても善いんじゃないか?と蓮見さん。

まぁ、今後の知識として経験しておけばあとで何かの役に

たつだろうと思い、申請する方向へ行った。

 

第5回市役所突入計画発動

目的「障害基礎年金申請」

国民年金課へ資料請求

さっそく申請する事にしたので、用紙をもらいに行った。

申請資料がたくさんあり、ソーシャルワーカーさんと

話し合って、申請方法を決めたいと思います。と年金課!

連絡がきたのは、2週間後(私が市役所に電話して!)

電話が遅れていたら、もっと遅くなっただろう。

11

金子医師・蓮見さん一緒に相談

診断書を書く所を検討。その中の項目に「骨髄細胞」という

項目が!!そして金子医師が笑い出す。「これはマルクをやらなくちゃいけないんじゃない!!」って。

私は即「無理です♪(^―^)

結局、最後のマルクのデータを書きました。(4年前の物)

 

市役所へ

私の現在の障害(GVHD)を1枚の紙にビッシリと書きつめた。

私のこの5年間を書くには1枚ではとても足りないが

ありったけ書きまくった。(読める字で♪)

 

戸籍謄本・住民票・通帳をそろえる

戸籍謄本は取寄せだったから、3日ぐらいかかった。

 

障害基礎年金の請求完了

審査は3ヶ月ぐらいかかるみたいだ。

適応したら、毎年診断書を書いてもらい

毎年審査されるらしい。市役所へ通う事になる。(適応すれば)

 

金八先生を見る

復活した。なんの因果かわからないけれど

これも白血病が出てきていた。

12

AML治癒

障害基礎年金で出した、診断書に

AMLは治癒したと考えてよい」と書いてあった。

なんだか、ほっとした。

 

同日

当時、治療していた人があと2人になってしまった事を

母と知り合いが話している時に知った。

「私はなぜ生きているんだろう?」と考えてしまうが

すると、母が「生かされているんだよ。」って。

私のやるべき事は決まった。自分の道も見えてきた!

あとは進むだけ。(^―^)