阿佐ケ谷散歩

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20 西友

 東京暮らしになってから西友は常に生活の中にある。特に阿佐ケ谷らしい風景ではないのだけど。
 この西友が出来たときの事は覚えている。成田東に住んでいたころだ。はっきりした年は憶えていないけど、地元に出来た小さいデパートっていう感覚だった。確か5階に「マツモトロー」があったっけ。「松本楼」のことなんか知らなかったから(今でも知ってるわけではないけど。せいぜいあの100円カレーのってくらいで……)変な名前〜とか思ってた。阿佐ケ谷に戻ってきて真っ先に「マツモトロー」は?と思ってみたけど、やっぱりもうなかった。1973年(昭和48年)のオイルショックの時に、トイレットペーパーの買い占め現象が起きたけど、その時にこの西友でその現象を生で見た記憶がある。その時代もこの西友は通過しているんだなあ。
 今は便利だけどイマイチいかさないのが西友ってイメージだ。久米川にあった西友は何度行ってもいい品に出会わなくて食品以外買ったことはなかった。この西友も大地が来たときはまだ「無印良品」コーナーがあったのに、すぐに撤退してしまった。我が家のベッドはそこで買ったのに。それからは食料と日用雑貨以外は本当に利用してないなあ。ただし食料品は最近、結構品揃えがいい様な気がする。大地の手作り餃子はすべて西友の材料である。(2000)

19 夏の路地

「10 路地」から2度目の登場になってしまったけど、しつこく我が家の南にあった路地No.1。
 この路地が消えるとわかってからとにかく毎日写真を撮った。「俺んちの裏の路地」という題名で個展を開けるくらい。
 そして、これが最後の夏の路地風景。
 本当は雪景色の路地の写真もほしかったけど、この後冬を待たずしてこの路地は消えることになった。(あ、いや、姿を変えることになった)
 この夏の風景の中でも、こんな南国のような空をバックに撮れたのはなんかラッキーだったなあ。
 この道自体は今も存在する。ただ、アスファルトに固められただけなのだ。
 でも、この風景はもう望めない。路地から見上げたこの電信柱さえももう見られない気がするから不思議。
 この自転車は裏のアパートの住人の持ち物だったけど、この人ももう引っ越したようだ。なんだかイカス自転車だった。(2000.8)

18 喫茶店「プチ」

 大地にこの店を教えてくれたのは演出家の長濱博史。彼は阿佐ケ谷在住ではないが、阿佐ケ谷に詳しく阿佐ケ谷が好きな男だ。南阿佐ケ谷の「マッドハウス」に在籍していたせいもあるらしい。
 ここに初めて彼に連れられて来たときの大地の感激たるやなかった。
 カッコ良すぎる!
 看板には「1947」とある。
 マスターがこの店を始めたのがこの年だそうな。写真では全貌は見せてないけど、全貌見たらもっとため息だよ。そして店内も。
 とにかく昔阿佐ケ谷が文士村だった頃、その文士達がたむろしていたっていうんだから凄い。 最近では阿佐ケ谷在住の「爆笑問題」も御用達。落ち着いているし、静かなので打ち合わせやインタビュー取材を受けるときは良くここを指定する。初めて連れてくる人が、大地の時と同じ反応するのが楽しいのである。ただし、マスターが少し耳が遠いので、テレビをつけているときはちょっとボリュームが大きいがそれは我慢。
 しかしまあ、あまりの佇まいに、初めて入るのには勇気が必要なようで、金春智子さんは大地のエスコートで初めて入店できたくらい。「アニメーション制作進行・くろみちゃん」の「スタジオプチ」はここがモデル。北口駅前のスターロードという通りの中にちまっとある。駅からは1分。(2000)

17 荻窪までの道

 昔、青空球児・好児っていう漫才師がいて(今も現役かもしれないけど)、彼らの持ちネタに言葉を逆さにいうギャグがあって、「僕もよ」というのを「よもくぼ」というわけです。で、何度も「よもくぼ」と言っているうちに「よもくぼ……、おぎくぼ……、あさがや、こうえんじ……」と口が滑るギャグがあったの。今は笑えないと思うけど、当時は大爆笑!
 何でこんな話をしてるかというと、中央線で言うと、阿佐ケ谷の隣は「高円寺」と「荻窪」なんだって言いたかったわけ。(つまりこのギャグを当時笑えた人はごく中央線界隈のわずかな人だったのかもしれない)
 我が家の前の道を東に歩けば「高円寺」、西に歩けば「荻窪」である。
 若干、高円寺寄りなんだけど「荻窪」までだって歩いて20分くらい。日がな日曜日の昼下がりなどはたまにぶらっとこの20分の道のりを「荻窪」に向けて散歩する。この「荻窪」までの1本道には、いささか古いけど洒落た家がたくさん点在している。

あまり建物に詳しいわけではないのだけれども、いわゆる洋館造りの佇まいである。バリバリ洋風でなく和洋折衷といった感じ。阿佐ケ谷辺りにはそういう家が多くて、大地の胸をワクワクさせる。だからこの道を通るのが好きである。人の家なのであんまり堂々と写真を掲載するのもどうかと思い、その内のひとつのイカス門柱と、壁に時計のあるおしゃれな家を紹介。金春智子さんの話によると、そのワクワクの家の中に「刑事コロンボ」の訳をやった額田さんという方のお宅もあると聞いて探しながら歩いたり。まさか御本人もそんな散歩のされ方をしてるとは思わないでしょうなあ。ああ、見つけましたよ、額田さんのお宅。片流れのかっこいいお家でした。(2000)

16 阿佐ケ谷中脇の廃屋

 俺は廃屋マニアだって事が最近わかった。うらぶれた路地、おんぼろアパート、廃屋になぜか心が吸い寄せられる。だから阿佐ケ谷が好きなのかも知れないけど。
 そんな阿佐ケ谷もだんだん細胞の入れ替えが進んでいるのかもしれない。うかうかしていると、次に通ったときはもうないとか、すっかりリフォームされてて味わいが無くなってしまった建物とかを多く見かける。
 この家も、この写真を撮ったときはもうすでに廃屋だったのかな。阿佐ケ谷中の裏手、パールセンターに挟まれたところにあった。今はない。この写真を撮ったすぐ後に取り壊されていた。
 こんなことならもっとディティールを撮っておくんだった。雨戸の辺り、手すりの質感、玄関の形状とか。
 ちょっと田舎に行けばこういう家というかこんな光景は多いのかもしれないけど、阿佐ケ谷のような都心から10分のところに在るというのが良いのだと思う。新宿の裏にもまたこのような光景は多いよね。(2000)

15 路地No.2

 【10路地】で、我が家の南に隣接した路地を紹介した。その路地が大地は阿佐ケ谷路地No.1だと勝手に決めていた。
 そのNo.1が無くなってしまった今も記憶の中ではまだNo.1なんだよなあ。
 そして、まあ大地としては点差は大きいのだが、この写真の路地を阿佐ケ谷路地No.2としていた。
 この路地は、パールセンターとすずらん通りに挟まれた三角地帯にあった。そう、ちょうど熊谷真実の(母の?)店の在った裏辺り……と、過去形で書いているのは、この路地も今はもうないからなのである。
 まただ。
 2001年10月現在、此処はどうあっても阿佐ケ谷に似付かわしくないドデカマンションが建設されている。
 しかし、阿佐ケ谷に来て2年弱の間に、大地は美しい路地風景をふたつも奪われてしまった。阿佐ケ谷から高円寺、荻窪界隈で未だにこの二つの路地を越える路地光景は見つかっていない。一時、たくさんの山村がダムに沈んだが、そんなものとダブってしまうこの現状かも……。(2000)

14 けやき屋敷

【11十兵衛ちゃんin阿佐ケ谷】で紹介した「けやき屋敷」。彼女のいる位置の切り返しの風景になる。ここはいつ来ても鬱蒼としているので撮影しようにも光が回らないため、シャッターを切ることを躊躇していたところなのだが、実は日差しの良い午前中に来れば、結構明るい絵が撮れるということがわかった。要は朝の苦手なアニメ屋なので、午前中の此処を知らなかっただけだ。
 ご覧の通りの立派な門。この手前には低いが鉄柵あるのでこれ以上は中に入れない。だから誰のお屋敷なのかもわからない。この写真でもわかるしもう1枚の写真を見てもわかるけどでかい。これがほぼ駅前の風景だというのが不思議。とにかくしびれる場所だ。
 そして、無闇にこの屋敷を「けやき屋敷」と呼んでいるのだけど、実はこの屋敷の右並びには古びているが立派な洋館がある。雑誌「東京人」の137号「中央線の魔力」では、この洋館を「けやき屋敷」というふうに紹介している。もしかしたら所有者は武家屋敷(風)の方と同じか、同族の人なのかもしれないけど。その「東京人」でも「けやき屋敷といわれている洋館」としか書かれていないのでその辺は謎のまま。そのうち謎解明したいなあ、地元民としては。(2001.10)

 ちなみに下の写真がその洋館。「東京人」に載った写真もこれと同じ方向から撮っているのだけれど、もっと屋敷全体が厳かな姿で撮れていた。キャプションに平成3年撮影と書かれてあったが、大地が気づいたときには、手前が無粋な資材置き場になってしまっていて、せっかくのかっこいい屋敷の全貌を撮ることが出来なかった。一応、参考に載せたけど、これが限界のようだ。ぜひ「東京人」のバックナンバーを見てほしいけど……。

 「散歩の達人」2001.7月号によると、上の武家屋敷風のほうを「けやき屋敷」として紹介している。そして「個人の敷地で、阿佐ケ谷村の名主であった相沢家のもの」で「伝統的な名主屋敷の建物は昭和20年の空襲で焼けてしまった」と記載されている。洋館の方は「M」さんという表札がかかっているので、別の人のようだ。いずれにしても未だ全貌がわからない。とくに名主屋敷の方は鬱蒼としすぎているし……。

13 「旅人くん」

 「旅人くん」が復刻された。
 「旅人くん」とは大地にとっては『阿佐ケ谷の象徴』と思っている漫画家の永島慎二の漫画である。話は長くなるけど、大地が永島慎二の漫画に触れたのは学生の頃で、すでにその時には杉並の阿佐ケ谷付近に住んでいた。その頃NHKの銀河テレビ小説で「若者たち」というドラマをやったことがあって、何気なく観てたのね。主演は森本レオだった。そのドラマは若い芸術家達が狭い部屋でひしめき合いながら同居してるっていう話だったんだけどとても面白かったのね。そこに原作:永島慎二って出てたので早速その本を探して買ったら漫画もまた面白くて、すっかり永島慎二の虜になっちゃったんだよねえ。他にも「フーテン」とか「黄色い涙」とか傑作はいっぱいあるけど大地はこの「若者たち」が一番好きかな。で、さりげなく舞台が阿佐ケ谷だったし、永島慎二も阿佐ケ谷に住んでるって事を知って、その漫画に出てくる「ぽえむ」っていう喫茶店を探したっけ。この「若者たち」を語るだけで相当時間掛かるから、それはまた別の機会ということにして、「旅人くん」もその永島慎二の傑作だと思ってる。ところがこれが難しい漫画なんだ。見ると4コマ漫画、8コマ漫画の形になってるんだけど、4コマ漫画じゃないのね。オチないし……。写真にある表紙の男の子が「旅人くん」なんだけど、中に描いてある絵は、ずーーーーーつと、延々、表紙と同じアングル、同じポーズなの。敢えて言えば景色が変わっていくだけ。それが物凄くおしゃれに思えた。凄い漫画だと思った。「詩」ないしは「哲学」なんだよね(復刻版にやなせたかしもそう書いてる)。ところがその「詩」、「哲学」が若いオイラには実はさっぱりだった。わかんないの……。「いいなあ」とは思うんだけど、魅力も感じるのに、面白くないのね。
 それで、家にあったいくつかの「旅人くん」の本はいつしか引っ越しの機会に処分しちゃったんだけど、今回、懐かしさもあって、こうしてもう一度手にして読んでみたら、なんと、これが妙にしっくり来る。
 ああ、なるほど、これは年齢を重ねないと、わからない作品だったのかもしれない、と、思った。とっても奥の深い漫画、ぜひよんでみてほしいな。それで、わからなくても捨てないで持っていて下さい。大人になったらきっとわかると思うよ。子供のような大人になれたらね。(2001.10)

12 晩秋の徹夜明け

 「今、そこにいる僕」制作中。練馬の中村橋にあるAICで徹夜をし、早朝、東村山の自宅に戻る途中。
 中杉通りを素通りできない。どうしても建築中の我が家の様子を見に寄ってしまう。日一日と完成に近づく家は毎日見に行っても飽きない。
 そして、再び中杉通りを南下する。この時期、欅が色づいてきれいだが、落ち葉の頃はピーカンの日が多く、落ちる葉が逆光できらめいて美しい。
 阿佐ケ谷駅の高架の下を通過する。もうすぐこの町に住むのだという思いが膨らむ。このオレンジの電車、旧国鉄の首都圏の路線では王様である中央線だ。この中央線が良いのだ。「中央線文化」という言葉がさりげなく使われるほど、この中央線のオレンジ車両が貫くラインは気が濃い。
 ややマイナーな匂いのする「中央線文化」に、しこたまあこがれる大地なのだが、住んでからは現実的に「総武線」を使うことが多い。象徴とは裏腹に不便だってーの、中央線! 土日停まれよ! せめてある議員さんが主張してるように中野の乗り換えをお茶の水のような楽々乗り換えにしろっての、この中央線野郎が!(1999)

11 十兵衛ちゃんin阿佐ケ谷 

 北の駅前に阿佐ケ谷ではあまりにも有名なけやき屋敷がある。初めてこの場所を見つけたときは驚いた。鬱蒼と生い茂る欅の中に昔の武家屋敷のような門が見えるが、欅の暗さに表札は肉眼では見えない。近づくには不法侵入しなくてはならないので近づけない。自作「十兵衛ちゃん」に出てきた「竜乗寺本家」を彷彿させるたたずまいである。そのケヤキ屋敷の前である雑誌の大地特集の取材写真の撮影があった。
 この写真は、けやき屋敷を背に撮った切り返しの風景である。この一角だけはアスファルトはなく、まさに樹と土の香りのするなつかしい一角なのだ。
 写真に写っているのは大地の後ろに写し込まれるための「十兵衛ちゃん」の主役、菜の花自由のコスチュームをしたモデルの女の子。というよりコスプレイヤーだって。自由のコスプレは地味だけどね。でも、感動したのは、胸の膨み具合が吉松君の描く自由と全く同じ。もうこれには嬉しいやら恥ずかしいやら。それにこの写真ではよくわからないけど、あの複雑なヘアスタイルも全く地毛で自由と同じにセットしてある。名前を聞き忘れたけど、君はもうキングオブ・ナノハナジユウコスプレーヤーだよ!(1999)

10 路地 

 我が家の南側に隣接していた路地。
 この路地に一目惚れして、俺は今の住み処を決めた。阿佐ケ谷にはこういう路地が至る所にある。 至る所にあるが、この路地はその中でもピカイチにいけてる。道幅は1メートルちょっと。自転車はおろか人がすれ違うにも難儀な路地。中央に転々と敷かれた敷石は、日に何度も、そして長い年月の人の往来によって、いい具合にひん曲がっている。古いアパート、雑草や庭からはみ出した草木、蔦にからまれたブロック塀。無造作に置かれた自転車。作ろうと思って出来上がった道ではなく、人が通るために必然的にしかも自然にできた通路だから、直線な部分はない。そこはかとなくうねっているのだ。その曲がりがいい!
 見事な調和で構成されたこの路地はむしろ美しい。フリーハンドのラフスケッチのようだ。
 いくつかの雑誌の取材でも、この路地をバックに写真を撮ってもらった。
 この写真は自作「今、そこにいる僕」のエンディングのトップの絵の素材になっている。

 だが、今はこの路地はない。
 路地自体は残っているけれども、2000年に行われた下水工事をきっかけに憎きアスファルトによって埋め塞がれてしまった。今は、雑草も生えていない。(1999)

09 解体される家

解体される家 俺が買った土地には古屋が建っていた。これを壊さないと我が家は建たない。前の持ち主が長年住み込んだ家だ。
 どんな思いなのだろうか、前の持ち主は……。
 俺は冷静ではなかった。
 自分の新しい家に期待や不安を感じる前に、壊される家に少しばかり愛着が沸く。
 解体前夜に忍び込んで、初めて中を見た。壊されるにふさわしいボロだと思う。床だって軋んでいる。
 でも、こうして、デジカメに記録しておいてよかった。
 もう2度と見られない物。この「阿佐ケ谷」のコーナーには、これからもそんな写真がたくさん登場する。
 変わらない街はない。弁証法的唯物論者の俺としては、それは否定しない。でも、阿佐ケ谷は変わらない街なんだ。
 変わらない街阿佐ケ谷の変わっていく様を、俺は記録して、愛着を込めていきたい。(1999)

08 大地のあこがれの建物・ラピュタ阿佐ケ谷 

ラピュタ この建物を初めて見たとき、ため息が出た。
 うらやましいの一言だった。
 何がうらやましいかって、この建物を建てた人のセンスだ。この時設計中だった我が家にこのセンスを盛り込めないかと、随分何度も通って研究し、頭の中に思い描いた。
 あの壁面の「Laputa」の文字。あれをどうしてもやりたかった。おかげで今我が家の壁面には「1999」(1999年に完成したからと、むろん「1999少女隊」の1999)の文字をレリーフさせているんですよ、奥さん。
 至る所に使ってある古材も魅力的。壁面の色も形状もいい。後に中に入って、地下のホールの造りにコレマタ感激したが、3階4階の「山猫軒」というレストランもまた心えぐられる。
 予算の関係もあったけど、我が家を訪ねてきてくれた人は、要所要所にこのラピュタ阿佐ケ谷のパクリ箇所を見つけるかもしれない。

 もうすでに、ここで2度ばかりゲストでトークをしているが、今年(2001.8)は、ピンでトークをすることになっている。実は、阿佐ケ谷人としてこの上ない光栄と栄光を感じている。(1999)

ラピュタ外階段 ラピュタサロン

07 おじゃる丸のカンブツさんの元ネタ

松美園 「おじゃる丸」にカンブツさんという青年が出てくるの知ってる? あのキャラクターの誕生にはこのパールセンターの乾物屋「松美園」が関係してる。
 98年の暮れに、大地丙太郎と、桜井弘明、佐藤竜雄、幾原邦彦で対談をやった。その時に大地はリメイク版の「もーれつア太郎」をコケにしてしまったのだ。幾原くんのデビュー作だとも知らずに(しかも佐藤順一さんの作品だとも知らずに)。その時に反論として幾原君が「だって、乾物屋が出てくる漫画なんだよ。今どき乾物屋なんかないでしょ」というようなことを言った(ゴメンネうろ覚えで)。その時にすかさず桜井くんが「あるよ、阿佐ケ谷に」といとも簡単に言い返し、幾原君、言葉に詰まるの巻だった。
その阿佐ケ谷の乾物屋がこの「松美園」だ。大地にしても、そんなら自然に乾物のある世界を描こうと「おじゃる丸」にカンブツさんを登場させた。乾物の良さを飄々と語るカンブツさんは、実は暗に幾原君に向けて言っているのだ。「ほら、乾物って噛めば噛むほど味が出てくるでしょ」。
 パールセンターにはもうひとつ「川口屋」という乾物屋があって、大地はそっちで車麩を買ってる。「松美園」にはないのだ、車麩が。この松美園は「東京人」(1999feb no.137)という雑誌に「今はアーケードを改築しているので隠れていた店の文字看板が見えるようになった」と出ていたので「わ、今のうち!」と思って慌てて行ってみたのだ。そしたら、新しいアーケードはこの店の看板を今度は隠さない高さになるようだった。(1999)

06 心騒ぐおんぼろアパート その1

若葉荘 かつて、ごろごろあったボロアパートも最近はさすがに少なくなった。と、阿佐ケ谷のボロアパートに関して書いていたコラムがあったが、なかなかどうしてあるもんである。
 全く心が騒ぐボロさだ。
 当然、ここに住めと言われたら躊躇するのだが、本宅と別に持っていたくなるようなボロアパートであることは間違いない。
 戦後20年以内を舞台にした小説なんかを読むときに、こういう風景を思い浮かべられれば、その想像力だって広がる。それこそ、少なくなってるのは事実かもしれないが、何とかできるだけ長い間、保存しておいて欲しい、っていうか、我慢して住んでてほしい。
 このアパートは、後に、「アニメーション制作進行・くろみちゃん」で、透かしたアニメーター田の中が住んでるアパートのモデルになった。「青葉荘」というらしい。良い名前だ。(1999)

05 変わるのか、パールセンター

パールセンター 爆笑問題の田中のおばさんとやらが名付けたと言われている「パールセンター」(未確認な事実)。この商店街の存在も阿佐ケ谷では大きい。俺がここに来たかった理由の一つもこのパールセンターで、終日車の入ってこない商店街なんて絶対少ないはずだ。しかもこの長さで。自転車さえも乗ってはいけないのだ。押して歩かなければいけないのだ。でも、違反者は多いぞ。あれはかなり頭に来るぞ。全くの馬鹿者だ! おい、パールセンターを自転車乗って走ってる馬鹿者! 乗っちゃいけねえんだよ、本来よ! 言っとくけど、おまえら馬鹿な!(子供のけんかかよ……)
 で、そんなパールセンターがシンボルであるアーケードを修復していた。これは大事件だ。俺もガキの頃から馴染んでいたあの屋根が変わる。なんと、少なくとも駅前の信号待ちの時に雨に濡れないようになるようだ。(1999)

04 阿佐ケ谷の人として

寿々木園 阿佐ケ谷の人になるからには押さえてとかないといかんという強迫観念で足を運んでしまった駅前の釣り堀「寿々木園」。
 だが、俺は釣りはからっきし興味ない。かつて成田東の奥に住んでいたときは、家の前が立派な釣り堀だったし、大好きな近衛十四郎だって釣り堀を経営してた。だけど、俺は興味なし。
 ただ、阿佐ケ谷というと必ず 紹介されるこの釣り堀。俺も紹介しとく。
 はい、こんな感じだよお〜。
 ちなみに、ここはオープンなのでこの写真は気楽に入っていってちょこちょこっと撮ってきた。入るのに入りにくいような感じではないのはとても阿佐ケ谷っぽい。(1999)

03 五叉路の琺瑯看板

マクニン 阿佐ケ谷に住むことが決まった1999年1月。土地の契約だけは済んだが、建物が決まらない。仕事は詰まりまくっていて、焦ったりわくわくしたりがごちゃまぜでいた頃。
 相変わらずマッドハウスからAICまでの徒歩の行き来で阿佐ケ谷を探訪していた。当初は南でないと阿佐ケ谷でないと思っていたにもかかわらず一度出た北の物件を見に行ったときからぞっこん北に惚れ出した。
 かつて成田東に住んでいたときだって北になんて来ることはめったになかった。
 が、この北の五叉路はその頃から存在は知っていた。いろんな阿佐ケ谷人達が話題にする場所だ。それだけ印象深いのだろう。当時のイメージと言ったらやはり迷路への入り口だった。実は今もそれは同じで、2年近くここを通っているにもかかわらず、いまだに方向がつかめなくなる。阿佐ケ谷は迷路なのだ。だから飽きない。
 さて、その五叉路に久しぶりに来たときにこの琺瑯看板を見つけた。かつて二十年以上前に来たときにもきっとあったに違いない。その時は迷路にただ翻弄されるだけで目に入る余裕なんてなかったのだが……。(1999)

02 巻き尺を買ったカナモノワタナベ

カナモノワタナベ 以前、一度阿佐ケ谷の南に物件が出たことがあった。
 結果としては断念するのだが、その時に物件を測量するための巻き尺を買ったのがこの「カナモノのワタナベ」で、あとで泉麻人さんの「東京自転車日記」に写真が出ていたので何か親近感が湧き、その本と同じアングルで撮った写真である。
 住み始めている今、阿佐ケ谷には以前住んでいた久米川のようにJマートとかIワールドといった品ぞろえの良い大型工具店がない。仕方なく界隈でいちばん大きなこのワタナベはチョクチョク利用することになる。仕事部屋の5段のクリアケースもここで5個買った。買っては手で運んだ。犬とか猫が我が家の玄関先でフンをば放って行くので困っていたら、犬猫除けを売ってた。それも買った。
 ライターの金春智子さん(阿佐ケ谷在住)もここでよく買い物をするらしい。以前脚立を買いに行ったときに、おやじさんがおばさんに「客に対する(金春さんのこと)態度が悪い!」と金春さんの前で怒鳴りつけ、金春さん「おっさんの方がよっぽど……」と思ったことがあるそうな……。でも、良い店です。(おいおい強引なフォローだぜ)←いや、でも、最近金春さんが鉢植えの下に敷く皿を買いに行ったときには、サイズがわからなくて「ああ、こりゃ出直しか」と、困っていると、お兄ちゃんが「合わなかったら持ってきてくれれば、取り換えますよ〜」と、ごく自然な口調で言ってくれたのがとても好感持てた、ということですが、実際に持っていって気持ち良く交換してもらったかどうかは……まだ聞いてません。(1999)

01 路地裏のクリスマス

ステンドグラス 1998年の暮れも押し詰まっていた。
 阿佐ケ谷にあこがれて必死に土地を探すもまるで物件に出会わない。いささか疲れてきていた。でも阿佐ケ谷に住みたい。 そんな思いの中で当時制作していた(このころはまだ準備中だったけど)「十兵衛ちゃん」の制作会社マッドハウスのある南阿佐ケ谷から、机を置かせてもらっていた中村橋のAICまで歩いて通う毎日だった。ちょうど大好きな阿佐ケ谷を縦断できるのだ。そして、気に入った風景をとにかく残しておきたいとデジカメをCASIО のQV7000SXに買い替えたばかりだった(で、今もまだそれを使っている)。そして初めて撮った阿佐ケ谷がこの写真。中野との境にある阿佐ケ谷らしい路地裏の教会のステンドグラス。
 ああ、今日はクリスマスだったか……と、しみじみしたことを思い出す。
 あまり良い写真じゃないけど、記念すべき良き思い出なので、最初に載せてみた。
 そして、この年の押し詰まった29日に、劇的な今の土地に巡り合うのであった。(1998.12)

*なんと、後に住所は阿佐ケ谷でないことが判明! ま、いいか。

00 杉高のセーラー服

この清楚なデザイン!大地自身がまだ学生だった頃、仲間内で密かに愛着を傾けていたのがこの杉高(都立杉並高校)のセーラー服。
 セーラー服は好きだ。それは、ま、ちょっといやらしい意味で好きだ。だが、この杉高セーラー服はいやらしい意味でなく好きだ。
 俺達はこの杉高セーラーを、都内ナンバー1セーラー服に掲げていた(といっても他校のものと比較・研究していたわけではなく、それほど良いという意味なのだ)。シンプルで上品なデザインだったからだと思う。清楚なイメージだよね。当時は女の子もこのセーラー服を着たいという理由で「杉高」を受験したものも数多くいた。
 中学で大地が半年だけ在籍していた演劇部の美しい女性部長が、杉高に進学したと聞いたとき、先輩のこのセーラー姿を想像して胸高鳴ったことがあったけど、当時、とうとう、その姿を見る機会はなかった。
 一時期、あまりこの制服を見かけなくなった。人づてに「服装自由」になったらしいという話を聞いて、ちょっと寂しい思いをしていたが、このところ(2001年7月現在)よく見かけるようになった。やはりこのシンプルなセーラー服を愛着してくれる生徒が増えてきたのだろうか? この写真は、大変失礼とは思ったが、阿佐ケ谷駅でパチリと撮らせてもらった。(どうも、せっかくのこの清楚なセーラー服だというのに『コギャル着』してる生徒も見かける。それはそれで、かなり良い!)(2001.7)

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