悪意の園に住む一人の住人として
妬み、嫉妬、軽蔑、差別、蔑み
生きていく上で僕らはこうした感情と無縁ではいられない
そうした、感情への向き合い方として、かかし朝浩の文章より転載。一部改竄
ここに書くこと、改竄すること、のせることはこの場所だから意味があることをお忘れなく
どうやら人間は自らを有用と認識するために、自分と比較して劣った他者をどうしても必要とする。つまりは「差別」である。
古来より差別は制度化されていた。だから差別する側とされる側にとに共通の基準があった。すなわち、身分の「上下」がすべてを決定するというシステムだ。
しかし、現代において全ての人間は基本的に平等だ。だから、差別の基準は個人もしくは特定の集団内にある。彼らは常に「自分たちの常識」から外れた「異端者」を探す。そして差別する。悲しいかな、そこには自覚は
ない。
私は「知性」こそが人間の主体であると信じている。知識を蓄え、思慮をめぐらし理論を構築し俗欲を制す。そういった知的活動なくして人間は人間たりえない。
だが人間は本能を持っているし、それは動物と何ら変わらない。だから禁欲することが理想ではない。己の行いを「自覚」することが重要なのだ。
相手を愚かだと蔑んでいる。差別している。傷つけている。羨んでいる。呪っている。それを自分がやっていることだと自覚し、抱えていく。
その為に、知性はあるのであって、確かな自覚の上での差別ならばむしろ正当ですらあると私は思う。
要するに私は私の観点で「私を差別した愚かなXXXX」を差別したいだけなのだ
差別には差別で。否定には否定で。嘲笑には嘲笑で。それは愚かかもしれないが愚かである事を自覚する主人公は私の理想像の1つである
最近、僕は自分が悪意を持っていると自覚して悪意を持つようになった
人を傷つけるとわかっていてながら傷つけ、卑屈な羨望とわかりつつ憧れ、蔑んでいる自分が蔑まれることをわかっていながら誰かを蔑んでいる
そんな感情を持つ自分が醜いと思う。そして、醜いと自覚しているくせに醜い自分から抜けだせない自分を愚かだと思う。
しかし、それと同時に思うのだ
無意識に、無自覚に悪意を持っている奴よりはマシであると。少なくとも結果として現実の行動に奴らと大差はないと
それが幻想であることはわかっているのに。
醜いと自覚をした瞬間から、その醜い状態から抜け出さなければと、僕は思いはじめる。しかし、どんなに足掻いても悪意の無限地獄からは抜け出せない。悪意を持たずにいられない。
そんな苦しみを知らない、無自覚に悪意を持っている人々を、僕は蔑み、軽蔑し、そして・・・・・・・
そして、無自覚な人に僕は、どうしようもなく憧れている。
この、苦しみを知らなくてすむのだから
最後にどこかでみつけた名もなき詩を載せて終わりたい
ワルイ言葉を言った
勝とうとしたのに
負けた気になった
ワルイのが心につまった
底にたまったココアみたいに
黒くて重くてべったりついた
目の裏をつつかれて
涙のやつまで出そうになった
ホントは
ホントに
ワルイのは誰?
・・・
ごめんなんて
死んでも言えないし
悪いこと
言うようにできてるロボットみたい
あやまるなんて
できやしないよ
一人でも多くの人にこの呪いが届きますように
そう願う僕が醜いことを自覚しつつ
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