鳴弦
矢月水様

 
 ……寒くなってきた。風は夜の底をさらうように横に吹き、夏の名残の熱をすべて地表から根こそぎはぎとっていってしまう。虫の合唱は活気というよりも憂いを帯びだし、ひそやかに近づいてくる命の終わりを嘆くかのように切ない。
 空は澄み、月は怖いほどにその円い輪郭をするどく際立たせて輝く。光が強い分だけ闇は濃く落ち、ぎざぎざとした葉影が、奇怪な模様をいくつもいくつも眠る旅人たちの上に描いては、吹く風にゆらゆらと形を変えた。
 誰も見ることのない影の舞踏を、娘が一人、むくりと起き上がってふいに壊した。吹きつける風の冷たさにちいさく身を震わせると、少女は頬をぺちぺちと軽くたたく。見切りをつけるかのようにうなずいて、かたわらの矢筒を背に、そっと粗末な寝床を抜け出した 。
 おぼつかない足取りで森の底を這うように歩いていく娘を見下ろし、半妖は闇に灯る金色の目をうすく見開く。
 彼はばりばりと銀の長髪をぞんざいに掻くと、ひとつ息をついて立ち上がり、娘の消えた方角へと、音もなく姿を消した。

 夜に移動する火はこの時代、かえって危険だ。ちまたに横行している、落ち武者崩れの山賊などに目をつけられては面倒だからと、懐中電灯も持たずに出て来はしたが、月明かりだけで夜の森を歩くのは、現代人のかごめにとって、なかなか骨の折れることだった。
 昼間であれば小半時もかからずに行ける距離の場所へと、倍の時間を費やしてたどり着く。明るい内に下見を済ませ、目印にとその手前の潅木に細く裂いた布切れを縛っておいた。ヒラヒラと揺れるそれを指に絡め、かごめはようやく息をついて顔を上げる。
 潅木の茂みを抜けて足を踏み入れると、そこは森の中ほどにぽかりと拓いた、ごく小さな空き地だった。木々の切れ目に月は落ち、わずかな下草が銀色に揺れている。少女はその中ほどで足を止め、大きく伸びをひとつした。
「なかなか静かで、いいじゃない」
 しんとした気配に負けまいとするように、彼女は明るくひとりごちる。腰のあたりで揺れる矢筒から矢を抜き取り、肩にかけていた弓を外した。矢をつがえ、空き地の際【きわ】ギリギリまで距離を取る。ちょうどその一直線上にある木の幹に片目をすがめ、きゅっと唇を引き結んだ。――この程度の距離なら。
 弓手【ゆんで】を引き、馬手【めて】を掲げる。的を見定め、弦と矢を――。
 放った矢は、実に小気味よく空を切り、狙った場所よりはずいぶんと左に逸れた箇所にカツッ、と立った。矢はピリッと幹に直立して震えたが、力が弱かったのかすぐに鏃【やじり】は木肌に弾かれ、草むらの中に頼りなく落ちてしまう。
 かごめはそれをため息まじりに拾い上げ、拳でコツコツと額をたたいた。あーあ、と肩を落とす。
「上手くいかないなあ……」
 つぶやいて、肩の弓を取り直すと、かごめはトボトボと位置に戻った。

 自分の実力不足は承知している。いかにかの奈落をも吹き飛ばす霊力の持ち主と言えども、その力を相手に向かって放つことが出来ねば意味はない。事実、そうして相手を取り逃がし、またはそのために攻撃の機会を逸して、殺されかけたこともある。
 誰もそれでかごめを責めたりはしないが、だからと言って罪悪感や劣等感が消えてなくなるわけではない。犬夜叉でさえ、当初のようにポンポンとかごめをグズ呼ばわりすることはなくなった。
 黙っていられるくらいなら、文句を言われていた方が楽だと思う時もないではない。しかし言われたら言われたで、きっと落ち込むだろうと予測がつくのが情けなかった。
 今から彼らのレベルにまで追いつけるとは思っていない。けれど、せめても足を引っ張るのだけは避けたいと、かごめは体力の許すかぎり、夜中にこっそりとこうして弓射【きゅうしゃ】の練習を続けているのだ。
「でも、現実って厳しい」
 辛気臭い科白を吐いて、かごめは矢を一本取り出す。毎夜の涙ぐましい努力にもかかわらず、実力の方は伸びてくれない。日進月歩といくものではないと理解してはいるものの、周囲の状況は日々切迫してきているのだ。いつまでも守られていてばかりで、いいわけがない。
 出来るだけ早く、強く。可能ならば、彼女の前世、巫女桔梗の足許に及ぶくらいには。
(桔梗みたいに)
 的を目でおさえ、立ち位置を決めながら、かごめは少し唇を噛んだ。弓の名手だったという彼女。いまもこの世にいて、犬夜叉の心を占めている巫女。
 それを思うたび、心の奥底からじりじりと、灼けるような焦燥感が湧いてくる。桔梗になりたいと思ったことは微塵もないが、退魔の巫女としてのその力は、意識しないわけにはいかなかった。うらやましい、と正直思う。うらやましくて、ねたましい。
 草を踏んでいた足が、ぴたりと止まった。筈【はず】に矢をつがえたまま、腕が降りる 。
 矢を外すたび、放った力が不発に終わるそのたびに、心によぎることがある。犬夜叉は、なにを思うだろうか。こんな時、桔梗であったならと内心嘆息しているのかもしれない と。
「……ダメだ」
 かごめは息を吐き出すと、その場にぽてっと腰を降ろした。雑念だらけだ。こんな状態で、矢がまともに飛ぶわけがない。

 さらさらと吹きゆく風は冷たくて、火照った頬に心地よかった。澄んだ空に浮く秋月を眺めているうちに、波立った心が凪いでくる。耳を澄ませば、透明な虫の羽音が優しく響き、痛む心を慰めた。
 ……わかっている。自分はけっきょく、自分にしかなれないものだ。それに満足できないならば、自分を変えてゆくしかない。どんなに時間がかかろうとも。
(だいたい、いつまでもグズグズ考えないのが、あたしの取り柄じゃないの)
 冷風に桃色に染まった膝頭をたたいて、かごめはバネ仕掛けの人形のように勢いよく立
ちあがった。もう一度的を見つめ、今度はぐっと真面目ににらむ。
(ええと、最初は……)
 旅の合間に読み習ってきた弓道の手法を思い出す。まずは「足踏み」。身体を的から斜にかまえ、左足を的に向かって半歩ほど踏み開き、右足を扇形に踏み開く。体勢を整えて、矢を番【つが】える――「胴づくり」。それから、「弓構え」。弓をしっかり固定して、体を起こし――「打ち起こし」。弓と矢を、等しく高く掲げて「引き分け」。弓を引く
動作に入る。
(それから、えっと)
 いちいち本に書いてあった通りにやってみようとするのだが、どうもしっくりこなかった。文章の内容はほぼ暗記してあるのだが、実際にやってみるのと本だけで納得しているのとでは、わけが違う。頭ではわかっていても、身体が上手く動かない。
「……足、もっと開け」
 突然そばで声が響いて、かごめはギョッと息を呑んだ。あわてて探すと、空き地を囲む木のひとつがゆらっと揺れて、そこから銀髪の半妖が降ってきた。
 彼はひらりとトンボを打って地に着くと、かごめを見て顎を向けた。やれ、という意味らしい。
 なぜここに、と問いたかったが、かごめはその目に圧されて前を向く。言われるままに足の幅を広くして、月影のなか、青白く見える幹を見つめた。――あの中央に。
「目、逸らすなよ。腰に力入れろ」
 犬夜叉の短い助言に、軽くうなずく。そのままぐぐっと、弓手を引いた。ピンと両腕が張り、馬手の方にも力がこもる。視界がやけに狭まって、なぜか的ばかりが大きく見えた 。
「馬手の方、もう少し上だ。よし、そのまま……」
 あとは、言われるまでもなかった。渾身の力をこめて引き絞った矢が、ごく自然な動作で放たれる。弓射における事実上の最後の動作――「離れ」。
 果たして。矢はこれまでになく風を切って垂直に飛び、前方の木の中央、かごめの定めた的にあやまたず吸い込まれた。鋭く、鏃が幹を噛む音が響く。
「やったあ!」
 感動的な成功にかごめは思わずその場で飛び跳ね、踊るような足取りで幹に刺さった矢に走った。鏃が深く木肌を突いているのを確かめて、笑みがこぼれる。
「やったあ……」
 かごめは感慨深げに小さなガッツポーズを取ったあと、同じように彼女の成功具合を見てやろうと、近づいてきた犬夜叉を振り向いた。それがちょうど犬夜叉が、矢を覗きこもうとした時にぶつかったので、両者の間の顔の距離は、ギクリとするほど近くなる。
 お互いの息が肌に触れるほど間近に迫って、かごめは慌てて身を引いた。犬夜叉も弾かれたように後ろにのけぞる。
 頬を熱くして、かごめはとってつけたような笑みを浮かべた。照れ隠しに、舌が勝手にまわり出す。
「さ、さっきまで全然上手く行かなかったんだけど。犬夜叉、あんたってば弓も出来たのね。知らなかったわ」
「出来ねえよ。俺は、弓を引いたことなんざねえ」
 必要もねえしな、と犬夜叉は顔をそむけ、気まずそうに頬をこすった。かごめは小さく首をかしげる。
「だって、あんたの言うとおりにしたら、あたしちゃんと――」
「桔梗のやつが引くのはしょっちゅう見てたからな。……それで、覚えてただけだ」
「――……ふうん」
 かごめはぽつりと生返事をして弓を抱いた。それではいま、自分は桔梗の真似事をしたわけか。――結果、矢はみごとに的へと刺さった。
 五十年前の犬夜叉と桔梗。かごめの知りようのない、知ることの叶わない時代の二人。犬夜叉はやりもしない弓の型をそらで覚えてしまうほど、彼女を見て過ごしたのだろうか 。
 胸が細い糸で絞められたように、キリリと痛んだ。突然黙り込んでしまったかごめに、
犬夜叉は振り向いて眉根を寄せる。
「……かごめ?」
「――あたしを見て、桔梗を思い出してた?」
 あん? と、彼はうろんな顔をする。腕を組み、かごめの顔を覗き込むようにした。
「何言ってんだ、おまえ。俺はただ、弓を――」
「だって、桔梗の型なんでしょ!」
 馬鹿な嫉妬だ、と思うのに、言葉は勝手に口をついて外に出た。かごめは息を吸いこみ、嫉妬と湧きあがる劣等感に焦れる心を抑えようと努力する。
「なんか、やだ。桔梗の真似して、それで弓が上手くなっても、あたしちっとも嬉しくない」
 まともに犬夜叉の顔を見れなかった。そう言う自分が恥ずかしい。けれど、黙っていることも出来ない。
 うつむいて苦吟を吐く娘に、犬夜叉は眉根を寄せて、顎をかたむけ。……やがて彼もあさっての方向をむきながら、ぽつりと言った。
「桔梗の真似じゃ、なけりゃいいのか?」
 え、と顔を上げたかごめに、犬夜叉は小首をかしげる。
「おまえ……強くなりたいんだろう?」
 犬夜叉は幹に突き立ったかごめの矢を片手で外し、鏃と彼女の指先とを見比べた。豆だらけだな、とささやくように言う。
「鍛錬もいいけど、手当はきちんとしておけよ。おまえ、皮膚が弱いんだからよ」
「それはあんたが普通じゃないだけでしょ、って……ううん、もしかして……知ってた? 」
「毎晩もそもそ起き出してりゃな」
 犬夜叉が知っているということは、多分弥勒にも珊瑚にも筒抜けだということだ。彼らもまた、かごめの努力も焦りも承知していて、それらを慮【おもんばか】って黙ってくれているのだろう。
 仲間の気持ちが嬉しくもあり、そんな気遣いをされている自分が、さらに情けなくもあ
った。かごめはまた、顔を上げられなくなって目を伏せる。
「――…あのな。『鳴弦』と言うんだと」
 黙ってしまったかごめを持て余すかのように、犬夜叉は不器用に声をかける。かごめが目線だけで彼を見ると、少年は何も持っていない手で、弓を引くような動作をした。
「矢は必要ねえ。弓が弦を弾く音には、魔を祓う力が宿る。そいつを利用して、場を清めるんだ」
「……それも、桔梗から教えてもらった?」
 蚊の鳴くような声で問う娘に、彼はしばし金の眼をうすく細めた。ああ、と答えて、彼女の弓をその手に取らせる。
「だけどあいつは、これだけは苦手だった。真似じゃねえぜ? やってみろよ」
 別に桔梗と張り合って、真似がいやだと駄々をこねたわけではないのだが……。それを言ったところで、理解の利く男ではない。この微細に揺れ動く女心をわかってくれ、などという期待は、とっくの昔に捨てている。
 それよりもいまは、彼の慣れぬ気遣いを無下にはしたくない気がした。かごめは戸惑いながらも弓を構える。そしてそのまま、空き地の中央に歩を進めた。

 青い月光が地を満たす。銀の葉影に囲まれて、細身の少女が立つ姿は、一編の詩のようだった。犬夜叉は唄など解さないが、それでも胸を圧すものに目を見開く。
 流れる黒髪も白磁の肌も、いつも濡れているかのような両の瞳も。すべてがかの巫女に通じるようでいて、その実まるで異質なものだ。こうして同じように、弓を引いて立っていてさえ。
 ――それなのに、少女は巫女を強烈に意識する。己と重ねられることを、ひどく嫌がる 。
 その根底には、かごめの犬夜叉に対する想いがあるのだが、人の情に疎い半妖にはそれがよくわからない。鳴弦の法を勧めてみたのも、なかば互いの間に詰まった気まずさを、紛らわせるためだった。
 かごめは弓を渾身の力を込めて振り絞る。今度は的がないので、少女の顔は閑地の天上、秋の星空に向いていた。優しげな面立ちが、きりりと締まる。そうすると――彼女はきっと怒るだろうが、やはり桔梗によく似ていた。
(桔梗は、この術が苦手だった)
 嘘ではない。実際彼女は、この法で森の瘴気を祓うことはあまりなかった。矢を用いず、確実にただの一撃で、邪気を一掃できることを知ってはいても。

 ――私と魔と、いったいどこが、どう違う?

 かつての彼女の、寂しい言葉が甦る。
 張り詰めた弦が月に、きらりと光った。――かごめの弓が、静かな森に高く唄う。

「……あ」
 かごめは思わず、あんぐりと口を開けて上を見た。弓が琴のように振動をもって細かに震え、ぴいぃぃん、と澄んだその音が、空の一角に吸いこまれて消えたあと。……代わりに、白い花びらが降ってきた。
「うそ……」
 手の平に落ちてきた、白地にわずかな紅色の、その花片に我が目を疑う。――この時期に、桜の花びら。あり得ない。
 秋の赤に衣を整えつつあった枝先に、葉の代わりに花があった。枝が重くしなるほどに咲き誇り、降りこぼれて雪のように落ちて来る。足もとにはたちまち乙女の肌色の絨毯がやわらかく積もり、ゆるく吹く風に今度は地表からも舞いあがった。
 樹上から、大地から。瑞々しい花の雪が上も下も境失く、視界いっぱいを埋めつくす。照らす光は淡いばかりの月の青。息を呑む光景に、かごめは驚くのも忘れて、ただ呆然と立ち尽くすしかない。
 さらさらと流れる景色に、犬夜叉は顔をゆがめた。互いに絡み合うように触れあっては、舞い唄う花の歓喜。優しげな、温かい森の唄声。
 耳ではなく、心に聞こえる――これが、かごめの祓え。
「違う……」
 吐息のような低いささやきに、かごめはかたわらに視線を移した。

「――見よ。犬夜叉」
 翠の暑気に抱【いだ】かれていた森は、見るも無残なありさまだった。季節が逆行したかのような、無味乾燥。枝は立ち枯れの様相を呈して刺々しく、木肌は灰色に沈んで虚ろだ。先ほどまで森を埋め尽くしていた瘴気はどこぞへと消えていたが、代わりに夏の活気も根こそぎ奪われ、雪もない無情な冬がただあるばかりとなっていた。
「これは……」
「案ずるな。ただの幻だ。……すぐに消える」
 桔梗がゆるく首を振ると、黒髪が灰白色の景色に扇のように広がった。艶やかな一糸【いっし】一糸が絹の髪に、思わず目を奪われているうちに、その絹の合間から翠が覗く。髪がもとのように背に流れる頃には、森はすっかり夏の色へと戻っていた。ミンミンと、とたんに騒ぎ出した蝉がうるさい。
「なんだったんだ、いまのは」
 蝉の合唱に眉根を寄せつつ犬夜叉が問うと、鳴弦だ、と桔梗は素っ気ない調子で答えた 。
「聞くのははじめてか」
「覚えはある。弓の音で、魔を祓うとかいうやつだろう」
「そう。いまおまえが見たのは、その力の具象化だな。普通の人間の目には、なにも映らないだろうけど」
 桔梗は小さく微笑って、犬夜叉の獣耳に目を向ける。とたん眉根を寄せた彼に、どう思った、と静かに尋ねた。
「なにが」
「半妖のおまえの目に、いまの景色はどう映った。……恐ろしいと思ったか?」
「誰が。幻ごときに怖気るもんかよ」
 負けん気強く腕を組む彼に、桔梗は息を吐く。真っ青な空を見上げて、巫女は白い袖をはためかせた。
「――あれが、私の力なのだ」
「あ? どういうこった」
「なにもかも枯らせてしまう、負の力。気づいたか、犬夜叉」
 なにをだよ、と彼はますます不機嫌に声を尖らせる。
「まだるっこしいのは好かねえんだ。はっきりと言え」
「……森の精霊が消えただろう。私が、瘴気とともに弾き飛ばしてしまったのだ」
 巫女の言葉に、半妖は眉根を寄せて森を仰ぐ。森には蝉の唄が満ち、あふれる夏の碧の光が所狭しと踊っていたが、目に見えぬものの気配はきれいさっぱり、途絶えていた。
 葉影にうごめく古霊も、木に宿る木霊【こだま】の気配も、感じ取れない。小川を流れる水の唄も、石に埋【うず】まる太古の声も、まったく聞こえてこなかった。
 死んでしまったわけではない、と巫女は細い声で言う。
「ただ、かなりの精気を奪ってしまったことは確かだ。もとどおりになるまでは、時間が必要となるだろうな」
 へえ、と犬夜叉は特に感慨もなく相槌を打った。森の精霊の存在など、微々たるものだ。少なくとも彼らは妖かしのように襲ってきたりはしないし、気配自体がそもそも希薄で、通常意識することもあまりない。人も魔も、四方八方敵だらけの彼にとって、そうでない存在は意識の範疇外だった。
「だから、なんだ? ……それだけ力が凄いとでも言いてえのか?」
 肩をすくめて聞く彼に、桔梗は小さく首を振る。
「そんなことじゃない。犬夜叉、私の力は無慈悲なのだ。ただ放てば、奪うだけ。相手がなんであろうと、区別なく」
「力ってのはそういうもんだろうが。破壊以外に、いったいなんの用途がある」
「……そうだろうか」
 巫女はささやくようにぽつりと言い、蝉の声ばかりは大きいが、精気のない夏の森を振り返った。冬の夜空を閉じ込めたような瞳を伏せて、彼女はうすく微笑する。
「では、私の力は妖かしと同じものだ。なあ、犬夜叉――私と魔と、いったいどこが、どう違う?」
「……おまえは、人間だろう」
「そう…思うか?」

 ――いまでも思い出す。桔梗はきっと、そうだと言って欲しかったろう。
 けれど、犬夜叉には言えなかった。夏の、静かな碧に溶けこむ白い装束に黒髪の巫女の姿は、彼女のその力以上に、人間【ひと】離れして見えたので。

 力というものは、破壊するだけのものだ。ただ、操る者によって向かう矛先が違うだけ。今までずっとそう思ってきたし、そのことに疑問を覚えたことすらなかった。
 だけど――……。
 白い花びらが徐々に透けて、幻想【ゆめ】の終わりを告げていた。枝をしならせていた花は去り、からからと乾いた肌を擦り合わせる葉に変わる。温かかった風は気まぐれな女のように冷たくなり、花色に染められていた大地は、もとの落ち着きを取り戻した。
 少しずつ遠くなってゆく森の唄。かごめの弓は、彼らを奪いはしなかった。
「……びっくりした」
 少女は胸を抑えてため息をつく。祓い、というからには、もっとこう、なにかを追い払うだとか、消してしまうだとか――そういう感じを想像していたのだが、なぜ春の遠景などが見えたのだろうか。
「なんだったんだろう、いまの。ね、犬夜叉……」
 かごめはもう一度、違う、とつぶやいた半妖に声をかけた。どういう意味かを問おうとしたのだが、そのとたんに花が薄れだしたので、訊ねる機会を逸してしまった。
 ――少年は、少女の声にのろのろと顔を向けた。どこか、失望したような、哀しんでいるような――奇妙な表情。
「……おまえの力だ」
「あたしの?」
 意味が汲み取れずに、かごめは首をかしげる。犬夜叉は戸惑う彼女に歩み寄ると、その手から弓を奪った。そのまま、地面に投げ捨てる。
「ちょっと、なにすんのよ!」
 やっと手に馴染んできた武具を乱暴に扱われて、かごめは思わず声を荒げた。犬夜叉はそんな彼女には委細かまわず腕を伸ばし、細い腰を抱き寄せた。
 いきなり目の前が暗くなって、かごめは犬夜叉の胸に顔を伏せている自分を自覚し、真っ赤になる。
「い、犬夜叉、なにす―――」
「……そのままでいい」
 押し殺したような声に、かごめはえ、と顔を上げようとした。けれど、強い力で胸に縫いとめられているために、それができない。離してよ、ともがくと、いっそう強く抱きしめられた。
「犬夜叉……?」
「おまえは、そのままで充分強い」
 力には、破壊しかないのだと思っていた。だけど、いまならばわかる――そうでない、力のあること。染み入るように温かく、儚くて優しく。なのに、強い。
 ――かつての桔梗が、欲して手に入ることのなかった力。
 いくら破魔の力を持っていても、それによってどれだけ人々の尊崇【そんすう】を集めてはいても。ただ、淋しかった女。彼女は最期まで、本当の安らぎを得ることはできなかった。
 そう――過去形で考えてしまう自分が苦しい。
「かごめは、そのままがいい」
 闘いの中に本気で身を置くつもりなら。なによりも強い破魔の力を求めるのなら。……彼女はその代わりに、たくさんのものを投げ打たねばならないだろう。もしかしたらそれは、かごめというこの異世界の稀有な少女の本質をも、歪めてしまうことになるかもしれ ない。
「でも、犬夜叉……あたし、足手まといは嫌なの」
 かごめは抱きしめる強さに嬉しさ半分、惑いながら心中を告白する。
「あたし、強くなんかないもの。いつも守られてばっかりで、役に立つこともろくにできなくて……せいぜい四魂の玉を見つけることくらいしか、胸の張れる力もないし」
 いままでずっと、誰にも言わずにきたことだ。言ったところで、彼女自身が弱いままでは、ただ情けを請うているのと変わりない。そんなことはないよ、と慰めを欲しがる弱音 だ。
 ――そう思うとまた情けなくて、自然顎が震え出した。
「だから、弓が少しでも出来るようになればって……そう、思って」
 泣き出しそうになって、かごめは慌てて唾を呑む。これ以上惨めな姿をさらすのは嫌で、彼女は急いで明るい調子を取り繕った。
「ほらあたし、力だけはけっこうあるみたいじゃない? なんてったって、あの奈落も吹き飛ばしちゃったくらいだしさ。だから、あとは矢さえまともに当たるようになれば、大活躍かなって思うのよね」
 犬夜叉は答えない。腕も解かない。かごめは胸に顔を押しつけたまま、首を振る。
「だから……ねえ、お願い。もう、離してよ……」
「――おまえの強さは、殺すことには使うな」
 少女の懇願に、少年は名残惜しげに腕を解く。胸元でホッと息をつくかごめの肩に手を置き、犬夜叉は生真面目な顔で彼女の顔を覗きこんだ。
「そのままで、いてくれ」
「――それじゃ、進歩がないわ」
 いいんだ、と彼は背を向ける。放り出したままだったかごめの弓を肩にかけ、帰るぞ、と勝手に決めて歩き出した。待ってよ、とかごめは憤然として後を追う。
「あたし、まだ今夜の練習終わってないのよ!」
 追い着いて、弓を取ってやろうと手を伸ばすと、代わりに手首を取られてしまった。そのまま、キュッと握られる。豆が痛く
て、かごめはびくりと肩を揺らした。
「……その内、箸も持てなくなっちまうぜ」
 かごめは頬を朱に染めて――頑固者、と悪態を吐く。
 
 月夜の森の気配は優しく、かごめの持つそれとよく似ていた。
 やわらかな掌【てのひら】から伝わる体温が心地よく、少しさびしい。
 ――束の間、桔梗の鳴弦を聞いたように思った。
 ……悲鳴のような。

【終】

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矢月水さんから戴いた作品です。
これは元々御自身のサークルで発行されるCD-ROMに収録される予定だった作品で、私ありが挿絵を描かせて戴くお約束をしていたものです。事情でCD-ROMの制作は中止されましたが、矢月さんの御厚意で当サイトに掲載させて戴ける事になりました。本当にどうもありがとうございます。
挿絵は無い方がいい場合も多いですので(^ ^;)、挿絵付きバージョンは別に用意致します。
…準備中ですので気長にお待ち下さいませ(汗)。

矢月水さんのサイトはこちら→A-point