No.209 思いでの水槽
2006.8.6
Photoshop 3.0J



あれは私がまだ小学校にあがる前、幼稚園のころだった。親戚のおばさんが入院したため、母がちょくちょく見舞いというか、手伝いみたいな感じで病院に行っていて、一人で置いておけない年齢の私も、幼稚園が終ってから一緒に着いて行っていた。

病院がある場所は、西新といって、福岡で一番の街である天神から、西に当時のチンチン電車で30分ほどの場所にあった。西新は庶民の町で、市場がどこまでも続き、道の真ん中にはリヤカー部隊といわれる、近所の農家や漁師の奥さんが引いて来たリヤカーがならびいろんなものを売っていた。(今でも数は減ったが健在で名物になっている)そして道ばたにもズラリと店を広げ、幼い私には毎日が祭りのような賑わいに感じられた。

何度か病院へ行ったと思うが、そのうちの一回に、私にとってその後の人生にとって重大な出来事があった。それは細部は憶えていない。何故か私は、初めて会った親戚のおばさんと一緒に病院へ向かっていた。なぜそうなったのか、そのおばさんが誰なのかは今となっては判らない。しかし何故か私はそのおばさんに手を引かれ市場を通っていた。

市場の道端の一角に、一人のおじさんが金魚を売っているところがあった。前には薄く水をはった箱に入った金魚。横や後ろには金魚鉢や水槽に入った金魚がたくさん置かれている。それは今思えばニュースで見る中国や韓国のマーケットを彷佛とさせるものだったように思う。

私はそれ以前から生き物は好きで、近所に大きなタタキ池何面もに沢山の金魚を泳がせた、卸しもやっている金魚屋もあったので、それまでも金魚はたくさん買っては死なせていた。当時は物価に比べ金魚の値段は安く、忙しい時に金魚さえ与えていればいつまでも一人で遊んでいる子供だったらしい私は、玩具として金魚を買い与えられていたようだ。しょっちゅう買っていたところをみると、金魚は適当なものにたくさん詰め込まれ、おそらく長生きしなかったようだ。

私がその露天の金魚屋を前から知っていたのかは記憶にない。その時、金魚をずっと見ていたのかどうかも憶えていない。憶えているのは、何故かそのおばさんが、私に金魚を買ってくれたことだけだ。しかも、ただ金魚だけではなく、水槽に入っていて、エアポンプもセットになっている立派なものだった。憶えていないが、よほどものほしそうに見ていたのかもしれない。(笑)

おばさんは田舎の人で力が強かったのか、それをビニール袋で包んでもらい、片手に下げて一緒に病院へ行った。遅れて病院にやってきた母は、何故病室に金魚の水槽が置いてあるのか不思議に思ったかも知れないが、おばさんとの話に気をとられていたようだ。帰りぎわ、その金魚が私が買ってもらったものだと知り、ひどく恐縮していたのを憶えている。(思うに、それまでも金魚屋の前で金魚を見るのが、病院に来る時の私のお決まりのコースだったのではあるまいか)私が金魚屋の前を離れず、おばさんを困らせたと思ったのかも知れない。(事実そうかもしれないが、笑)私は大人しい子供だったようだが、動物が欲しい時だけはかなり意固地だった。

その水槽は今にして思えばかなり小さなものだったろう。なにしろ母が病院からそのまま持って帰ってきたくらいだから。とはいえ、電車をあきらめてタクシーで帰ってきたような気もする。母は田舎のおばさんほど力は強くなかったようだ。

それで私は、それまで持っていなかったガラスの水槽とエアポンプを手に入れた。それはステンレスなどではなくブリキ製のものだったが、ちゃんとガラスをパテで留めた、当時子供だった私から見れば本格的な作りだった。真鍮線の飛び出し防止用の蓋があり、中には石で出来た橋の置き物と、数本の金魚藻。そこに2匹の金魚と1匹の出目金が泳いでいる。そしてエアポンプから伸びたチューブは投げ込み式の濾過器につながり、ポコポコと泡を出している。それは私にとって金魚屋で眺めることしか出来なかった魅惑のシステムだった。

金魚はいつまでも澄んだ水の中で元気に泳ぎ、それまでのようにアプアプすることもなかった。当時はまだプラケースはなかったのだろうか?ガラス越しに見る金魚の行動は私に感動を与えてくれた。そして私はいつまでも濾過器から水面へと昇っていく泡をずっと飽きずに見ていた。濾過器にはグラスウールが詰めてあり、日に日にゴミが溜っていく。洗う時に手に刺さったのを憶えている。

その水槽は何年か使っていたが、ブリキが錆びて穴が空いたからかも知れないが、プラケースが出回るようになって使わなくなった。エアポンプは修理しながら数年使ったが、ゴムが割れて使えなくなった。(それでも不思議に今のものより長持ちしたように思う)石の橋はかなり長持ちしたが、その後、赤いプラスチックの橋の部分が壊れてしまった。濾過器は40年近くたった今でも使える状態で飼育室にある。

あの時、何故か親戚のおばさんと二人で歩いていなければ、私は今とは少し違う私になっていたかもしれない。少なくとも、今も捨てずに大切にしている濾過器は存在していない。