パンドラの箱

 神は退屈していた。
厳密に言えば神は退屈することなどない。しかし100億年の1000億倍の1万兆倍もの間何もしないでいるのは、人間でいうところの退屈に近い状態だっただろう。(もっとも神には時間という概念も無いのだが)
 神は光の宮殿にいた。そこには光だけがあった。
光だけしかないのに宮殿というのも変だが、これはあくまで人間にわかりやすく言ったまでで、そもそも神の世界を人間の言葉では表わすことなど不可能だ。そういうわけだからこの後もおかしな所や、矛盾する所があるかも知れないが気にしてはいけない。

 退屈した神様は宮殿の庭を散歩してみる事にした。
すると庭の一角に不思議なものがあった。それは小さな水たまりだった。神様は思い出した。それは1000億年ほど前に退屈した時に掘っておいたところだった。その水たまりを神様がのぞいてみると、中にはなにやら“くらげ”のようなモヤモヤしたものが漂っている。おそらく穴を掘った時に神様の垢でも落ちていたのだろう。神様がグッと目を凝らして見ると、ひとつの“くらげ”と見えたものは、ものすごく小さな粒の集まりだった。神様が不思議に思って指先で突いてみると、眩い光を発して大爆発をおこし消えてしまった。その後には何もない巨大な穴が空いていた。神様はせっかく育っていた世界を自分の不注意で壊してしまったことを後悔した。

 しかしそれから300億年ほど経ったころ、また退屈した神様が通ってみると、その大きな穴にはまた水がたまり、無数ともいえる“くらげ”が育っていた。

 こんどは神様も注意深く眺めてみた。すると“くらげ”を構成する小さな粒はそれぞれ違う色をしていて、熱いものもあれば、冷たいものもあった。おかしな輪がついているものもあるし、沢山のより小さな粒を従えたものもあった。

 神様はその中に面白い粒があることに気付いた。その粒には生命が溢れていた。木々が沢山生え、その間を大きな爬虫類が歩き回っている。そこはまさに楽園だった。しかし見る間に小さな小さな粒がぶつかると、あっと言う間に雲に包まれ爬虫類は滅んでしまった。

 神様は残念に思ったが、生き残ったものがまた殖えてきた。神様はその生命あふれる星で自分の分身を育ててみたくなった。神様はその星に降り立つと土をこねて自分に似せた人形を造った。それはサルのような奇妙な生き物になった。

 しかしその神の知恵を与えられた生き物は、産まれた途端猛烈な勢いで進化しだした。サルたちは粗暴で、その星に棲む生き物を喰い、どんどん殖えていく。神様はまた自分のしたことを後悔した。そしてそのサルたちの中に自分の嫌な部分を見つけ嫌悪した。だが神様はせっかく造った自分の分身を無に帰すのは忍びないと思った。しかしこのままではこの星の生き物を喰い尽くしてしまうかもしれない。一計を案じた神様は2つの罠を仕掛けることにした。ひとつは知恵の木の実、もうひとつは開けてはならない箱だった。

 この作戦は上手くいった。サルたちは進化すると木の実を食べ知恵をつけた。すると開けてはならないと言われている箱に何か良いものが隠されているのではないかと勘ぐり開けてしまう。するとその箱から出てきた災いにより、進化しすぎたサルは滅んでしまうのだった。この方法は神様が直接手を下す必要もなく良い方法に思えた。サルは何度も何度も滅んでもまた進化してくる。神様はいずれは箱を開けない素直なサルが現れるのではないかと思ったが、サルは進化するたびにどんどん粗暴さを増していった。そしてとうとうその時がきた。


 こんど進化してきたサルは狡猾だった。仲間を作り集団化したサルたちはリーダーの元、計画的に行動した。ただ捕えたものを喰うだけでなく、育て増やして喰い、恵まれた楽園の中で爆発的に殖えていった。

 集団のリーダーはパンドラという美しい女だった。女の住処には開けてはならないと伝えられる箱があった。それは代々伝えられてきた箱だったが、誰も開けてはならない事に疑問を感じたことはなかった。パンドラ自身もその箱のことは気にしたことなどなかった。それはただそこにあるだけで何の関心を持つものでもなかった。

 ある日パンドラは木に美味しそうな実がなっていることに気がついた。しかしその木の実を食べてはいけないと言われている。見ていると胴の長いトカゲが木に登り木の実を食べ出した。
「あんたその実を食べても何ともないの?」
パンドラがトカゲに聞くとトカゲは言った。
「もちろん何ともないさ。鳥も獣もみんな食べてるじゃないか。食べないのはあんたら人間だけだよ。すごく甘くて旨いぜ。」
パンドラは無性にその実を食べてみたくなった。
「ああ旨い。こんなに旨いものを食べないなんて勿体ない。はやく食べないと他のやつに食べられてしまうぜ。」
もうパンドラは我慢が出来なかった。パンドラは木の実を手に取ると大きく口を開けてかぶりついた。その実はこれまで食べた何よりも甘く美味しかった。
「ああ・・・なんて美味しいのかしら!約束を守って食べなかったのが馬鹿みたいだわ!」
そう言うとパンドラはお腹いっぱいになるまで木の実を食べた。こんなにお腹いっぱいになるまで食べたことなど今まで無いことだった。

 しかし木の実を食べてからおかしな事が起こった。それまで気にならなかった事がすごく気になる。何でも気になるし、何でも知りたい。これまで自分が知らないことがあまりに多かったことに気がついたのだ。
 夜寝ていてもパンドラの目は部屋の一角に釘付けになった。それは開けてはいけない箱だった。それまで全く気にならなかった箱の存在がパンドラの中でどんどん大きくなっていった。
「あの中には何が入っているのかしら?絶対素敵なものが入っているに違いないわ。だって食べてはいけない木の実だってあんなに美味しかったじゃない。」
パンドラは箱に近付くと蓋に手をかけた。それは簡単な止め具で開かないようにしてあるだけで鍵は掛かっていない。なぜ今まで誰も開けなかったのか不思議なくらいだ。

 パンドラは止め具を外してそっと蓋を開けた。箱の中は暗く、中に何が入っているのか判らなかった。しかし突然それは外へと飛び出してきた。
「キャー!」
怒濤のごとく飛び出してくる黒い霧に驚いてパンドラは悲鳴をあげた。それはこの世で考えられるありとあらゆる災いの固まりだった。それらは箱から飛び出し楽園へと流れ出していく。だがパンドラはこれまでその蓋を開けたサルとは違っていた。パンドラは必死でその蓋を閉めようとした。しかし流れ出る悪意の力は強くパンドラの力では蓋を閉めることが出来なかった。流れが緩やかになり、ようやく閉めた時には箱の中には『絶望』だけが残っていた。

 もうこの世界は楽園ではなくなった。ありとあらゆる災いが人間たちへと襲いかかる。天からは光の矢が降り注ぎ、地は割れ、洪水が人々を絶滅へと追いやった。

 しかし、それでも人間たちは何とか工夫して生き延びていく。そして災いさえ利用するようになると、とんでもない勢いで繁殖しだした。ものすごい数になった人間たちは街を作り、国を作り、仲間どうしで殺し合う。次第に神の存在さえ恐れなくなっていき、このままではこの星のものを喰い尽くすまでになってしまった。

 もしあの時パンドラが箱の蓋を閉めなければ、人間たちは絶望して絶滅していただろう。しかしこんな世の中でも、人間たちは絶望することも知らずに殖え続けていった。自分達で考えだした根拠のない“希望”だけを頼りにして・・・

 もはや神様にさえどうすることも出来なかった。