『江戸無血開城』影の立役者は権現様
 幕末の慶應四年(西暦1867年、明治元年)三月十三日、東上してゐた朝廷方大総督府下参謀の西郷隆盛は江戸薩摩藩邸に入りましたが、幕府の陸軍総裁である勝安房(海舟)は直ちに高輪の薩摩邸を訪れ西郷と江戸無血開城に関して第一回目の会談をしました。此れを端緒に江戸無血開城がなり、江戸が戦火に包まれるとの未曾有の惨事が回避された事は遍く知られる所です。

 然し、この西郷・勝会談が実現するのに先立って
将軍徳川慶喜に直々に面談してその恭順の意を朝廷
方の西郷に間違いなく伝へるやう命じられたのが、
将軍側近の高橋泥舟の義弟で、小旗本で市井の剣客
に過ぎない山岡鐡舟でした。
 慶喜としては側近の泥舟にその役を命じたかった
のですが、彼が江戸を離れたのでは、朝廷軍が東上
して来るのにいきり立った配下を押さへ切れないとて、
『代りにそれを為しうる者がゐないか』との泥舟に対する
問に、義弟を推挙したと言ふ次第なのです。
 鐡舟は将軍の命を受けると直ちに勝海舟を訪ねて
その許可を得ると共に、勝の西郷に宛てた書翰を預って
、駿府まで東上して来てゐる西郷の元に急行、その
人と為りと気迫に流石の西郷も圧倒され、江戸無血
開城への足懸りが築かれたのです。

 所で鐡舟が駿府に西郷を訪ねて江戸に戻ったのは
慶應四年三月十日ですが、それに先立つ二月に奥山
半僧坊大権現を訪れてをります。この権現様は深奥山
方廣寺の鎮守様で、この御寺は臨済宗方廣寺派大本
山で後醍醐天皇の皇子、無文元選禅師の開山された
禅宗の御寺です。
 鐡舟は禅にも造詣が深く、この時期にここを訪れたの
には何か心に期するものがあったと考へられます。
 当然奥山半僧坊大権現にも何事か祈願した筈で、
その結果、心に秘めるものがあり、考へやうに依っては
権現様の御威光が乗移ったと言っても良いかも知れま
せん。要は、腹が据って余分な雑念が消へ、為すべき
事を迷ひ無く真摯に遂行出来る状況が出来したものと
考へられますが、これが御利益と言ふもりのかも知れ
ません。

 明治十年代後半と推定される時期に、勝海舟と山岡鐡舟
が、恐らく御礼参りと考へられますが、奥山半僧坊を訪れ、
夫々、『奥山半僧坊大権現』と『深奥山』なる揮毫を残し、
現在、扁額として奥山半僧坊大権現真殿と方廣寺本堂に
掲げられてをります。

大権現真殿

大権現像

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