教育とは・・・

 近頃、凶悪犯罪者の低年齢化が問題になってをり、その原因が色々と取沙汰され、例に依ってしたり顔の其の筋の専門家か何かが判ったやうな判らないやうな御託を並べ、挙句の果は何もはっきりとせず有耶無耶の内に世間から忘れ去られて仕舞ふとの過程が繰替へされてゐる。
 このやうな過程で、どうした事か、当事者たる子供とは如何なる存在で、これを一人前の人間に育て上げる教育とは如何なるものかと言ふ点について、その本質にまで立帰った議論が為されないのはどうした理由からだろうか。
 以前は子供については『餓鬼』と言ふ別称があった。(断ってをきますが、蔑称ではありません。)この餓鬼は佛教用語で、『衆生は前世の行いに依って生れ変って行く六つの世界があって』、悪い方から良いほうに並べると『地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上』なる由。
 つまり餓鬼は人間よりも三段階下に当る世界で、其処に堕る者も人間になりそこなった者で勿論人間では無い。
 この事を踏へ、昔から子供に餓鬼なる別称を用ひ、人間では無い、詰り、人間の姿形はしてゐるものの、謂はば人間予備軍であって、そのままにしてをいたら人間になり損なふと言ふ警告の意味を込めて、この別称を用ひて来た。
 それが、最近になって餓鬼は生れながらにして人間だとノタマウ曲学阿世の輩や、これに迎合したマスコミやら一般労働者と化した教職員、其の他がワンサと蔓延り、おかしな事態が頻発する一因を為すに至ってゐる。

 一方、教育はどうなってゐるかと言ふと上述の内容と大同小異で、本来の教育が甘やかしや御機嫌取の御遊ごっこに化けて久しい。
 教育の『教』は、其の偏は『屋根に千木(交叉した木)のある建物、即ち、校舎を表す上部と、そこで学ぶ子弟をあらはす子を組合せたもの』。旁(ツクリ)は鞭を表すもので、学舎で学ぶ子弟たちを長老達が鞭で打って励ますこと、鞭撻する事を示し、かくして「教」は「おしえる」の意味となる旨、白川静著『常用字解』にある。更に用例には、教育=教へ育てる事、と出てゐるが、今日横行する『教育』はこの本義から逸脱すること甚だしく、手短に言へば、上述の如くです。。

 兎も角も、斯様な教育の本義に立戻らない限り、意味の無い駄論の羅列に終って仕舞ひ、何も良くならなひならまだしもどんどん悪くなる事請合だと、主奴は愚考してをる次第です。
 

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