私はたった一人で彼女を待っていた。
白い壁とダークブラウンのドアに切り取られたこの部屋には、いくつかの棚と革張りのシングルソファがあった。調度はすべて白色で、絵や観葉植物の類は一つもない。潔癖さを思わせる真っ白な室内は、常に空調で室温と湿度が整えられていた。肌寒さを覚えるような冷ややかな空気は、わずかな風によって室内を巡回する。その冷気に頬を撫でられながら、私はいつも彼女を待っていた。
彼女はいつも唐突だった。私の都合なんてお構いなしとばかりに、無遠慮にダークブラウンの鍵穴に鍵を差し込む。強引にガチャガチャと鳴らすその音で、私ははじめて彼女の来訪を知るのだ。せめて部屋に入る前にノックの一つもしてほしい、と何度も交渉したけれど彼女は取り合ってもくれなかった。睡眠や食事を必要としない自分の身を、私は少しだけありがたいと思った。食事中のみっともない顔や、睡眠中のだらしないよだれ姿やぼそぼそと寝言を紡ぐ姿を彼女に見られなくて済むからだ。
その日も、彼女は突然に鍵穴を鳴らした。
空想に耽っていた私は不意に現実に引き戻され、思わず不機嫌な視線をドアに投げかける。鍵穴はまだ軋むような悲鳴を上げていた。彼女はいつまで経っても鍵をうまく開けられなかった。いつも何回も左右に鍵を回してから、思い出したように開錠の音を響かせる。その間に私は大慌てで彼女に会える準備を整える。たいしたことは一つもない。ずっと一緒にいられるわけではないのだから、せめて彼女といるわずかな時間は一番の笑顔でいられるようにほんの少しだけ心の準備が必要なのだ。
ドアが薄く開いて光が差し込む。そのわずかな隙間から彼女が顔を見せた。目が合って、彼女はぱっと顔をほころばせる。
「曜子」
はずんだ声で私の名前を呼んで、彼女は足早にこちらに駆け寄る。私の頬を両手で包むように触れる。
「ただいま。寂しくなかった?」
「ううん。大丈夫」
もちろん嘘だ。彼女を困らせるとわかっていて、素直に答えられるはずがない。
「聞いてくれる? 今日ね、営業部の課長にランチを誘われたのよ」
彼女はそのまま両手で私を持ち上げた。抱きかかえるように胸に寄せて、ソファに身を沈める。
「新しいプロジェクトのことで内示なんて言ったけど、下心見え見えでいやらしいったらないの。いつも何かって用事を作っては話しかけてくるんだから」
「ひどいね。誰か職場で助けてくれる人はいないの?」
「今日は先輩に頼んで口裏合わせてもらって。先約があるってことにしちゃった」
「それがいいよ。なるべく二人きりにならないようにしないとね」
「先輩に何かでお礼しないといけないね。何がいいかしら」
「どこかでランチ奢らせてもらうのは?」
「そういえばこの前行きたいお店があるって言ってたっけ。それに誘ってみようかな」
ぽんぽんと彼女の口から放たれる言葉に耳を預けて、私はゆっくりと彼女の手の感触に身をまかせた。彼女の手は部屋の室温に慣れた私には少し生温い。
最近になって気付いたが、どうやら私の言葉は彼女には届いていないらしかった。話が噛み合わないとは思っていたけれど、まさか聞こえていないなんて想像もしていなかった。
「うん。そうしよう、さっそく明日先輩にメールしてみるね」
彼女は一人で結論を出すと、私を顔の前に掲げた。数分振りに見た彼女の顔は晴れ晴れとしている。
「話聞いてくれてありがとう」
唐突に会話を終了させると、彼女は私の頬に軽く唇を触れさせた。ソファから体を起こすと、ゆっくりと私を白い棚の上に戻す。
長い髪が絡まらないようにか片手で丁寧になぜると、一歩下がってバランスと角度を確認し彼女は満足そうに頷く。
じゃあね。おやすみなさい。そう言い残してドアを抜けていった。私は動かせない両目で視界の限り彼女の姿を追い続け、彼女の指先が照明のスイッチに触れると同時に闇に取り残される。不器用な手つきで鍵を閉める音だけがドア穴から聞こえた。
真っ暗になった部屋の中でぼんやりと考える。
どうして彼女には私の声が届かないのだろう。彼女の声は私に届いているのに。
彼女が楽しそうなとき、悲しそうなとき。何も言葉を返してあげられない自分がもどかしい。
どうしたら彼女に私の声が届くようになるのだろう。
私が首しかないから彼女には声が聞こえないのだろうか。
だとしたら、彼女も私と同じように首だけになれば私の声が届くようになるのかもしれない。
その日の彼女はいつもと少し様子が違っていた。
部屋に入るなり、ばたばたと慌ただしく棚を漁り出す。いつものように私に微笑みかけてくれるどころか、目を合わせてくれさえしない。
「どうしたの?」
私の問いかけにも何も答えてくれない。どうしたというのだろう。やっぱり、言葉の通じない私が嫌いになってしまったのだろうか。
棚を開き机の上をひっくりかえすような大騒ぎをする彼女を眺めて、それでも私は彼女に向かって口を開く。昨日まで声が伝わらなかったからといって、今日もそうだという確証はない。何度だって彼女に伝わるまで話しかければいい。
「ねえ、そんなに散らかすと危ないよ」
「あった!」
片っ端から引き出しを開けて回っていた彼女が大きな声を上げた。
彼女の姿を視界から見失っていた私は驚いて、次の言葉を聞き漏らすまいと耳に神経を集中させる。
「これで大丈夫。あとは支度をして、電話は……」
呟きが聞こえた。まるで何かの段取りを確認するような内容。いったい何が大丈夫だというのだろう。支度とはなんなのだろう。
足音が聞こえて、私の視界に復帰した彼女の片手には芯に巻かれた糸のようなものがあった。細くて固そうなそれを、彼女はドア近くの棚と壁の間に、橋のように一本渡す。慎重に張り具合を確かめ、丁寧にそれに触れる。ぴんと張られたそれは、うっかり触れたら肌を切ってしまいそうな光沢を放っていた。
彼女はドアからの距離を測るように何度も糸との間に視線を往復させる。そこではじめて私に目を向けた。まるで物を見るような無表情で、大またに私に向かって足を踏み出す。
一瞬だった。
彼女の足はばらまかれた一枚の紙を真ん中から踏み、誘われるようにそのまま足を前にすべらせた。バランスを失った身体はそのまま後ろに倒れ込み、彼女の首の軌道にはいまさっき張ったばかりの糸があった。
さくり。彼女の首から上は体から離れた。そのままころころと床を転がって、私の視界におさまるギリギリの場所で動きを止めた。鮮やかな断面から血があふれ出し、フローリングの床に膜を張るように広がっていく。
私に胸があれば、きっと興奮に高鳴っていただろう。彼女は首ひとつになった。何度も繰り返し夢見た光景がたった今現実となった。これで彼女と話すことが出来るかもしれない。私の言葉が彼女に届くかもしれない。
「ね、ねえ」
震える声で呼びかけてみる。返事が聞こえたらどうしよう。いったいなんて返せばいいのだろう。呼びかける言葉を必死に探して、私は彼女の名前すら知らないことに気が付いた。
「私の声が聞こえる?」
重ねて問いかけるが、返事はない。
彼女の首は私に後頭部を向けたまま、断面図からごぼごぼと泡を吹き続けている。
まさか、私の声が聞こえないのだろうか。首筋を冷たいものが通り過ぎる。その不安をかき消すように、もう一人の私が提案する。もしかしたら首になったばかりでまだ話せる状態ではないではないか。考えてみれば私自身も首になってすぐの記憶があるわけではない。きっとしっかり考えて話すことができるようになるまで時間がかかるに違いない。
とにかく待ってみようと私は決めた。待つことなら得意だ。いつも次はいつ来るともしれぬ彼女を待っていたのだ。その彼女がいまは目の前にいる。彼女が目覚めるのを待ちながら、ゆっくり話しかける言葉を考えればいい。なんて楽しそうな計画だろう。
彼女が目覚めたら最初に名前聞きたい。彼女を呼んで、返事がもらいたい。
いったいどれくらいの時間が経っただろう。
窓もない、たったひとつのドアは開くこともない。朝も昼も夜もない。カレンダーも時計もないこの部屋では、時間は流れないに等しい。
変わらずに冷気を送り続ける空調設備のひんやりとした風を受けながら、私は彼女が目覚めるのを待った。
もしかしたら、とうに目は覚めていて声が出せないだけかもしれない。そう思って定期的に声もかけてみた。けれど彼女からの返事はない。
もう少しの辛抱だ。
もう少し待てば。
あともう少しなら待てるだろう。
私は私に語りかけ続けた。
私には私しか話しかけることができなかったのだから、仕方がなかった。
何度も何度も同じ言葉を繰り返し、その言葉の意味を忘れかけた頃、私は異常な臭気と彼女の周囲に蠢くものに気付いた。
彼女は腐っていた。
眠りとも沈黙ともつかない深い夢についていた私を、複数の足音と乱暴な音が呼び覚ました。
彼らは彼女がいつもてこずっていたドアをいとも簡単に壊し、私と彼女だったものを見て顔を凍らせた。
そしていま、私は墓地に埋められようとしている。
私を見て泣き叫んだ人たちに抱かれて、土の下へと沈められた。
墓の中はじめじめと湿度が高く、闇の向こうでちらつく影は彼女を蝕んだものと似た気配を感じさせた。
あの部屋とは何もかもが違う。
居心地が悪い。最後に一言だけ呟いて、私は深い眠りに落ちていった。
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