2015年7月26日
「狭い門からはいりなさい」
マタイの福音書 7章13、14節
「狭い門から入りなさい」という有名なみ言葉です。受験や就職や、国家試験などで使われるような「狭き門」という言い方とは異なります。その場合「狭き門」とは競争率が高い、人気の高い、多くの者が行きたいと望むところ、たくさんの人が志願するが、選ばれた小数の者だけが入る「門」です。しかし、「狭い門から入りなさい」というイエス様の教えは人気が高く、多くの人が行きたいと願うところとはむしろ逆で、見つかりにくく、なかなか気づかず、また、入って行きたいと思う人が少ない、そういう「門」です。みすぼらしく、多くの人々に見向きもされない見栄えのしない目立たない「狭い門」から入りなさいとイエス様は教えられたのです。
この狭い門から入るとは、神様を信じ、イエス様を信じて生きる、つまり信仰の門です。イエス様を信じ、聖書を学び、聖書のみ言葉に従って実践し、奉仕をし、救いの道を人々にお伝えする門です。具体的にはこれまで「山上の説教」で教えられたような、「律法学者やパリサイ人の義にまさる儀」を実践し、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」こと、「地上にではなく天に富を積む」ということ、「思い悩む」のではなく、「神の国とその義とをまず第一に求める」ということです。
それはイエス様が十字架を担いで私たちのために歩んで下さった道でした。私たちはこのイエス様を目標にし、見本にして歩みます。滅びに至る門ではなくいのちに至る門を決断し続けることこそ、平安と確信の人生となるのです。また「狭い門からはいりなさい」とは永遠の命に至る道であり、福音の指し示す道に歩むようにとの招きです。
狭い門から入り、狭い道を歩み続けてまいりましょう。
2015年7月19日
「黄金律」
マタイの福音書 7章12節
名言といわれる聖書のみ言葉が続いていますが、その中でも極みと言っても良い黄金律と呼ばれる、私たちが人生の中心となる規範であり5章から続く「山上の説教」の全体の要約でもあります。
この「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」という教え自体はシンプルですが、「相手がして欲しいことをする」という意味であると誤解されることもあります。相手がどうして欲しいかということも大切ですが、私たちが大切だと思うことよりも上に聖書の命令、聖書の教えがあります。それに相手がしてもらいたいことは分かるとは限りません。十人十色の考えを持つ方々に対して、誰にでもどのようなときでも当てはめるようにと神様が教えてくださった、誰にでも分かるルールだということです。
ただ、心しておくべきこともあります。自分にしてもらいたいことをしても、相手にとっては迷惑であったり、傷つけてしまうこともあるでしょう。もちろん自分は聖書の言うとおりのことをしたんだから相手の事は考えなくて良いということでもありません。聖書に教えられていることをしたけれども受け入れられなかったときに、私たちは律法学者やパリサイ人のように高ぶるのではなく、限界を知り、悩み、祈り、神様に委ねていくことが大切なのではないでしょうか。
どうぞ、自分がしてもらいたいことを相手にする、と言うことのことをどんなときにも愛をもってしてくださり、できなければ悔い改め、相手に受け入れられなければ、共に苦しみ、痛みを分かち合い、一緒に悩みながらも祈りながら、神様に信頼しながら、希望と癒しと平安を神様からいただける幸いを確信して、歩みつづけて参りましょう。
2015年7月12日
タッチ (ダビデ・ボンド師)
マタイの福音書 7章7節〜11節
触れる
触れることは良いことです。肩に手を置く、お母さんが抱きしめる、握手、手をつなぎ合う。しかし逆に、触れることが傷つけ、辱めることもあります。平手で顔をぶつ、お腹を殴る、過剰な攻撃。
多分、旧約聖書の中で、触れることの最も重要な例は、大祭司がヤギ(贖いのヤギ)の上に手を置き、イスラエルの民の罪と悪を告白したことです。大祭司が触れることの意味を自覚して、ヤギに触れることで、神は罪が人々から離れ、ヤギ、他の生き物の上に移るように決められました。この移行は、人々にとっては大きな祝福でしたが、ヤギには大きな呪いとなりました。なぜなら、ヤギは重い罪を背負って行かなければならないからです。
新約を見てみると、そこには、特別に触れることの良い例が書かれているのが分ります。イエスに関して、たくさんの触れることが書かれていて、それはみな、良いことでした。群衆がイエスに押し迫ってくることを気にせず、イエスは人を助けたいという思いから、触れる人を探していました。それは、足に萎えた人、盲人、重い皮膚病の人、見捨てられた人や罪人たちでした。
イエスは、死にかけている娘のところへ行こうとしていました。群衆がイエスに押し寄せている時、一人の女性が手を伸ばして、イエスの衣に触れました。「誰がわたしに触れたのですか?」とイエスが尋ねました。弟子たちは、大勢の人がイエスを取り囲んでいたので、誰だか分らないだろうと困惑しました。「誰かがわたしに触れた。わたしから力が抜けたのを感じた。」とイエスが言われました。(ルカの福音書8章46節)ついに、一人の女性が進み出て、イエスの足元にひれ伏し、彼女がイエスに触れたその瞬間に自分が癒されたことを告白しました。彼女は12年間長血を患っていたので、汚れた、触れてはならない存在でした。彼女の行為が公になり、どんなに彼女は居た堪れなく思ったでしょうか。律法では、彼女が他の人に触れることを禁じていたため、彼女は絶望の中にいました。絶望は全く悪いことばかりではなく、絶望の中に、ささやかな信仰がありました。自分では、どうにもできないけれども、イエスが何とかしてくれるのではないかと思うことがあるのを、あなたは経験していると思います。
イエスがあなたにご自身に触れるように招いているのを知っていますか?この女性は新約聖書の中の英雄です。この女性は信仰の人と最初に言われたのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」とイエスは彼女に言われました。(ルカ8章48節)彼女の行動をまねて、なぜ、あなたがイエスに触れたかを公に告白してください。
イエスが触れ、また、願いを持って、イエスに触れる時、多くのことが起きました。触れる度に、変化が起こりました。「力」がイエスから出て行き、触れられた人へ入って行き、きよめの授与(聖化)
罪の赦し
洗い清め
癒し
が起きたのです。
その間に、汚れた人が、贖いのヤギであるイエスに何かを与えたのです。彼らが与えたものは、
罪、
恥、
犠牲と汚染
病でした。
福音とは、神が私たちに触れることです。神は私たちをきよめ、私たちの罪を負い、私たちの恥を引き受けてくださるのです。 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
コリント人への手紙第二5章21節
信仰とは、私たちが手を伸ばして、聖なる方に触れることです。イエスの内に、いや彼の内にのみ、希望があることを私たちは信じます。救い、癒し、清め、そして受容は、イエスが与えてくださるものです。だから、信仰とは「イエス様、私はあなたが必要です。」と言うことなのです。
罪と恥から抜け出すには、どうしたらよいでしょうか?
イエスに触れ、イエスに触れていただくことです。
2015年7月5日
求めなさい
マタイの福音書 7章7節〜11節
「求めなさい、そうすれば与えられます」というみ言葉は、有名で励ましに満ちた言葉で、積極的に生きることを教えています。ただ「本当に求めれば与えられるのか」と疑問を感じる方もいらっしゃるかもしれません。むしろ、求めていないことすら与えられることもあります。
大事なのはこれらの言葉の背後に、与えてくださる、見つけさせてくださる、開いてくださる「神様」がおられるということです。神様を抜きにして、ただ「求めれば与えられる」ということだけなら何の根拠も保証もない、むなしい言葉でしかありません。その神様は人間の親以上の存在です。人間の親は、不完全であり、罪ある者ですから間違ったものを子供に与えてしまうこともあるでしょう。しかし天の父なる神様はたとえ私たちが「石が欲しい、蛇が欲しい」と言っても必ず「パンや魚」という良いものを与えてくださるのです。
天の父なる神様が、私たちに良いものを与えて下さるのだから、求める者は与えられ、探す者は見出し、たたく者は開けてもらえるのです。神様が、天の父としての恵みのみ心によって私たちに与えようとしておられる良いものを私たちは受けるのです。ですからこれは、私たちが自分の欲しいものを何でも手に入れることができる、ということではありません。イエス様は与えて下さる方の存在を抜きにした、自分の欲望の実現を教えられたのではなく、求める者に良いものを下さる天の父なる神様への信頼との交わりを求めるようにと教えられたのです。
「求める」とは具体的に、祈ることです。祈りは神様との対話、交わりです。神様はそれを願っておられるのです。どうぞ神様に祈り「求め」、祈り「探し」祈り「たたく」信仰生活を歩んでまいりましょう。