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このページでは、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2019年7月]を短くまとめてのせています。

2019年7月28日

「おとなの考え方」

コリント人への手紙第一 14章20節~25節


20節のみ言葉は、社会人として一歩踏み出すときに、アドバイスされそうな言葉として、一般的にもとても受け入れやすい言葉かもしれません。この「子ども」という言葉は、良い意味ではなく「自分だけのことを考える、ひとりよがりな振る舞い」ととらえ、それをするなということです。しかし実際それは、子供に限ったことではないのです。大人は子どもよりも、少し、ひとりよがりでない行動を選ぶことができる、という程度です。自覚的に自分の自己中心性を捨てて、他の人のことを考え、配慮しようという判断ができるのだから、そのような考え方をしなさい、ということになるでしょう。
私たちは、信仰者として、どのように生かされているのか、何が求められているのか、しっかり踏まえたいのです。それは自分のための信仰にとどめてはいけないということです。与えられた恵み、頂いた信仰は、他の人を励まし、教会を成長させ、まだ救われていない人、未信者に聖書のみことばを伝え、悔い改めと赦しの恵み、人間のあらゆる問題の根源である罪からの救いに導くためにも用いられるべきです。
互いの賜物に対して高慢や妬みは不要です。悪事においては幼子でいいのです。しかし私たちは神様に導かれて、用いられる必要があります。この預言の賜物を頂き、増し加え、周りの一人でも多くの人に語り、そこに恵みと救いをもたらすことが出来るよう導かれているのです。
神様のそのような導き、促しに答えて、一歩歩みだしましょう。すでに語っている人はさらに語り続けるという、素直でありながら、信仰者とされていることを「おとなの考え方」で捕らえなおし、今週も歩んでまいりましょう。

2019年7月21日

「教会の徳を高める」

コリント人への手紙第一 14章12節~19節


この14章では、御霊の賜物の中でも、愛の賜物を追い求め続けなさい、というメッセージの中で、具体的に、預言と異言だったら預言の賜物を求めなさい、と言います。それは異言が非常に個人的なものである一方、預言は神様の言葉を語り、人を導き、成長させ、教え、励まし、慰め、戒めるのに役に立つものだからです。それは目の前の人に影響を与えるだけでなく、「教会の徳を高める」(2017年版では、「教会を成長させる」)ことになるというのです。信仰者の群れを、成長させ、励まし慰めることができる、そのような賜物である預言を求めなさいというのです。
皆さんが、神様から与えられている賜物は、他のクリスチャンに対して、あるいは教会で、どのように用いられているでしょうか。自分の救いは大事です。そして救われた者は、自分の一人が救われればいいという価値観ではなく、神様に従う、神様のお役に立ちたいという思いになるのです。それは当たり前だ、そうするべきだというよりは、神様から愛されていることをさらに強く実感することが出来るようになりことであり、平安や祝福を受け取ることが出来るようになることであり、さらに神様を愛するようになることなのです。
預言の賜物が「教会の徳を高める」ことは、互いに愛し合うことと深くつながっています。どうぞ、愛の賜物を増すのに役に立つ、預言の賜物を求め、成長させあう言葉、互いを強め、高め、慰め、導く神様のみ言葉を語り合う群れ、本当に愛し合う群れとさせていただきましょう。そのために、御言葉を求め、預言の賜物が豊かに与えられるように祈り求めましょう。私たちが、神様の御心をもっと語り合う集まり、神様を証しする一人一人として成長してまいりましょう。

2019年7月14日

「愛と預言」

コリント人への手紙第一 14章1節~11節


14章は冒頭で「愛を追い求めなさい」とパウロは言います。14章は、愛を追い求め、愛を基本にした賜物の用い方、賜物の生かされ方を、具体的に、預言と異言についてを比較しながら教えています。この二つの賜物については、コリント教会で混乱があり、パウロに助言を求めていた点でした。預言とは、一言で説明するなら「神様のご意志やご計画を語り伝える言葉」です。また異言は「一般の人には分からない、賛美や祈りの信仰に関する言葉」と定義できます。
パウロは預言の賜物を一番に求めよ、という単純なことではなく、愛を追い求める上で、異言よりも、預言することを熱心に求めなさいと言いたいのです。預言か異言かということを取り扱いながら一番に追い求めるべきは「愛」だということです。愛がないなら、無価値、無益、無意味だからです。そして愛を追い求め、預言の賜物が豊かに用いられるなら他の人を成長させ、隣人の励ましと慰めることができるのです。
イエス様に従い、イエス様に似た者になろうとするのが私たちクリスチャンの歩みですが、それはイエス様の愛の姿、愛豊かな生き方に見習うことです。もちろんイエス様も父なる神様との時間を大事にしました。それを弟子たちに見せ、異言ではなく分かる言葉で祈りました。それは愛を優先していたからだということが出来るのではないでしょうか。
聖書を読むとき、自分のためでもありますが、誰かにそれを伝え、誰かを成長させ、誰かを慰め励ます、聖書の御ことばを伝えることが出来ます。それが預言の賜物です。愛ゆえに求める預言の賜物が大事だ、とのパウロの言葉に耳を傾け、愛と、そのために大事な賜物を追い求める信仰生活を今週も過ごしてまいりましょう。

2019年7月7日

「信仰と希望と愛」

コリント人への手紙第一 13章8節~13節


パウロは12章の最後で「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と書きました。その中でも最高の賜物が「愛」だというのです。その一つの理由は「絶えることがない」からです。新共同訳では「滅びない」と訳されています。それはなくならないということであり、変化しないということでもあります。
ここでパウロが、今ある様々な賜物は、一部分であり、すたれるものだと力説するのは、それらの賜物と「愛」という賜物との違いを強調するためです。ほとんど全ての賜物が廃れるものであるのに対して、愛は、決して絶えない、すたれることはないのです。
ただ、この世の愛、一般的な愛ではありません。この愛は聖霊が与えて下さる賜物を指しています。元々私たちはこの愛を持っていません。この聖霊が与えてくれる愛は、絶えることがないと言われているのです。聖霊が与えて下さる賜物である、滅びることのない愛とは、この神様の愛を指し、自分が、この完全な愛によって愛されていることを知らされるのです。それこそが、聖霊の与えて下さる最高の賜物、愛なのです。
また愛以外にも、いつまでものこるものがあります。信仰と希望です。しかし、自分で信仰を持ったわけでも、自分で生み出した希望でもありません。愛と同様、聖霊なる神様からの賜物としての信仰と希望です。そのすべての中心にあるのが、イエス様によって示され、豊かに注ぎ出された、十字架の血であり、神様の愛です。
聖霊は私たちに、この信仰と希望と愛を与えてくれます。私たちが不完全で、罪深いにもかかわらず、です。この聖霊の賜物である信仰、希望、愛を、中でも愛を熱心に願い、祈り、求め続けて参りましょう。