このページでは、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2019年11月]を短くまとめてのせています。
2019年11月24日
「いっさいのことを」
コリント人への手紙第一 16章13節~24節
パウロは、この手紙の最後で、この世で毎日心に留めるべきクリスチャンのあり方を教え、強く勧めました。
「目を覚ます」というのは、終わりの日に備えるということが意識されています。「堅く信仰に立つ」とは、十字架と復活のイエス様に対する確固とした信仰に立つ姿勢、態度を表しています。「雄々しく強くある」というのはこの世に対してこの世の価値観(偶像礼拝など)に拒否する勇気です。そしてこれらを正しく実行するためには、みことばの価値観が重要です。常に聖書から教えられ続けないと、目を覚まし、堅く信仰に立ち、雄々しく強くあることはできません。
それらに加えて最後に強調しているのは14節で「いっさいのことを愛をもって行ないなさい」という言葉です。パウロは、コリント教会にこのことを強く勧めました。コリント教会の深刻な問題は、愛がないためでした。私たちの教会、一人一人にもそのまま当てはまることです。終わりを意識し目を覚まし備えて日々を歩む、十字架と復活のイエス様への信仰に堅く立つ、この偶像とその価値観の中で力強く立ち証しする、そして愛し合い、愛を持って行うということです。
さらに最後で「主よ、来てください」(22節)との祈りが書かれています。これは原文では「マラナ・タ」と言う大切な祈りの言葉でした。イエス様が再び天から来られる再臨を待ち望む信仰です。これは究極的な希望でもあります。この祈りこそ、私たちの日々の全ての祈りと、信仰による生活とを支えている土台であると言うこともできるのです。私たちは終わりの日、再臨を待ち望みつつ、その時までいっさいのことを愛をもって互いを愛し合い、一致して、歩んでまいりましょう。
2019年11月17日
「主がお許しになるなら」
コリント人への手紙第一 16章5節~12節
箴言に「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」(箴言19:21他に16:9や20:24)とあります
パウロは「主がお許しになるなら」という信仰、この手紙で自分がコリント教会を訪問する旅を今計画しているが、神様の導きと御支配の下でのみ可能、という信仰をもって記しました。同様の信仰を持っていても、現実はそんなに単純ではないかもしれません。身の回りで計画の変更や断念が苦手だったり、時間通り、思い通りに進まないことにイライラしたり落ち込んだりします。
しかし改めて聖書のみ言葉を通して「主がお許しになるなら」ということを受け止めたいのです。そしてこの様な信仰の大事なポイントを含んでいるからです。この「主がお許しになるなら」というのは、主に信頼するということの具体的な表れです。主に信頼するというのは、諦めでも無計画でもありません。情熱をもって、知性をもって、さまざまなことに取り組むことは大事です。しかし、信仰者はそこに「主がお許しになるなら」という大事な要素が入るのです。そしてそれが主の御心の通りに進められているということでもあります。事実、主がお許しにならなければ、やはりそうは進まないのですから、それを積極的に受け止めることは、平安や神様の恵みを感じ、力を得ることにつながります。実際、「主がお許しになるなら」次第だからです。
ですからそれが失敗の出来事や、恥ずかしいことでも、自分に受け入れられなくても、もちろん喜ばしい出来事でも主の導きと御支配の中に置かれていることを感謝し、「主がお許しになるなら」という信仰の姿勢をしっかりもってともに歩んでまいりましょう。
2019年11月10日
「栄光を与える ~Giving Glory Away~」
(ブライアン・ラスキ牧師/グレース教会)
ヨハネの福音書 17章20節~26節
2019年11月3日
「信仰と献金」
コリント人への手紙第一 16章1節~4節
16章でパウロは、実際的な用件を記しています。これからコリントを訪れる計画、コリントへ遣わしたテモテの推薦、コリント教会からパウロのもとを訪問した人々への感謝、エペソと周辺の教会の者たちからの挨拶を伝えています。そのしめくくりに入る前の最後にコリント教会への教えの箇所です。それが聖徒たちへの献金という問題です。
献金という言葉は教会でよく使われています。今もそうですが、聖書の時代の当時も、神様にささげる、神様の働きのためにささげると言うものでした。しかし、現代とは少し違う趣旨のものもあり、何かの目的のために特別に集めるお金でもありました。特にユダヤ教社会の中では、不利益を受けていたエルサレム教会のためでした。パウロはそのように献金を信仰の行動として、各地の教会で教え導きました。
直前までの15章で語られた「死者の復活」との落差を感じるかもしれません。これは復活を受け入れない問題と、現実の献金の問題はつながっており、信仰と現実世界の現実問題とは、つながっているという事だととらえてもいいでしょう。私たちはしばしば、信仰の世界と現実の世界とは別物だ、と考えてしまうことがあります。意識していなくても、です。ですから、私たちがいつも信仰的な目、信仰的な基準、信仰的な思いをもって日常を歩み、信仰的な事柄の中にも、いつも現実感を持つということが大事なのだということではないでしょうか。
信仰者として、信仰の世界を生きながら、同時に現実問題に向き合い、主の御手の中で、今日の現実を歩んでまいりましょう。信仰と現実が調和して、主の栄光を表し、主に喜ばれ、豊かにその恵みを受け取る信仰生活を歩んでまいりましょう。