ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2001年5月]を短くまとめてのせています。

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『すべての決定は、主から』
使徒の働き 1:15−26
2001年5月27日(日)

 イエス様が天に上られるのに際し、エルサレムに留まって約束の聖霊を待つことを命じられた弟子たちは、ただ空しく待っていたのではありませんでした。彼らは「みな心を合わせて」、ひたすら「祈りに専念」するとともに、自分たちの仲間が欠けたのを補い、「人事を尽くして天命を待っ」ていたのでした。待って備えていたのでした。それは主の定めたことを知り、それに委ねると言うことを、臆することなくしていたのでした。ここに記されている集団――まるで金色に輝く教会の卵のような――は、人間的に「あの人がいい」「この人がいい」ということではなく、信仰、信じて委ねる祈りの集団でした。
 現代における私たちクリスチャンにとっても、本当の意味で「人事を尽くす」ということは神の決定を祈り待つということです。主の御旨を確かに知り、それに従うと言うことです。神様が皆さんお一人お一人になさろうとしておられ、このクロスロード教会になさろうとしておられるその御旨を確かに知り、それに従ってまいりたいと願っています。 

『心あわせて』
使徒の働き 1:12−14
2001年5月20日(日)

 心をみんなで合わせ、神と一つにすることは私たちに求められていることではないでしょうか。もちろん、賛美をすること、聖書を読み、みことばを慕い求めること、神様に奉仕をし捧げること、証しすること、等など基本的なこともそうですが、ただ、自分独りですればいいというものでもありません。教会の始まりには、心を合わせて祈りに専念する集団があったのです。教会が、そしてクリスチャン一人一人が神様に祝される一つの要素としてこの「心を合わせて祈りに専念する集団」は、欠かせないものです。
 それでは具体的にどうすることなのでしょうか。御心を求め御心にかなった祈りをすること、また、誰かが祈るとき――祈りを導くとき――思いを合わせて祈ることです。神の御心にかない、神に一つにして頂いた祈りは、おのずと心合わされた、一つにされた祈りへと導かれます。私たちも一つにされ、心を合わせて祈るものとされたいと願います。