ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2001年6月]を短くまとめてのせています。

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『ナザレ人イエスによって』
使徒の働き 2:22-28
2001年6月24日(日)

 聖書が言う、世界の歴史とはまさに神様が人を救うための計画と、それが実現していく舞台です。ペテロははっきりとそのことを悟り恐れずあかしをし、それをルカは書き記し、残しています。私たちは、日々の生活に追われてしまうときに、ただ、個人の信仰の世界、つまり敬虔さ、道徳、倫理という眼にみえる形での信仰という者に目を向けます。それはとても大事なことですが、私たちは同時に「神様が人を救うための計画という世界の歴史とその舞台としての今」という視点を失ってはいけないのではないでしょうか。  「力強い神の業」はただ奇跡的なことがおきたことに留まらず、イエス様が教えてくださった愛の教えは道徳的なことに留まりません。むしろ、ナザレ人という実在の人物、イエスキリストという歴史上の実在する人格的存在を中心として、歴史における神の支配を語っているのです。この事を心で受け止めることが出来とき、イエス様が福音書を通して話された多くのこと、いかに罪人たちの中に入っていき、権力者達の中でいかに生き、そしていかに死んだか、従う者に何を期待しているのかが改めて明確になっていくのではないでしょうか。それは私たちがイエス様の生き方とその死、そして復活に参与するように、無関係でないようにと求められているということなのです。それこそ聖書に求められたキリスト者の生き方であるのです。私たちが、この語られたナザレ人イエスともっととことん係って生きるならば、喜びに満たされるのではないでしょうか。その様に生きられるならば幸いです。

『声を張り上げて』
使徒の働き 2:14-21
2001年6月17日(日)

 ここで語りはじめるペテロは、使徒たち、弟子たちの指導者であり、代弁者でした。これは彼が優秀だったからですか?、才能があったからですか?、気質のゆえでしょうか?、いいえ、そうではありませんでした。  その弱さのゆえにイエス様を3度も否んだ彼です。そのペテロが、人々に対して声を張り上げて、はっきりと、語れるようになったのです。ここで声を張り上げている彼は、自分のこと(いのちや恥のこと)を考えてはいません。まして、語ろうとした相手は目の前で起こったことすら疑うような人々でした。その様な人々に対しても声を張り上げて、はっきりと、語れるように神様がしてくださったのでした。ただ、主イエス・キリスト対する信頼と聖霊の満たしなしにはできないことなのです。 原始教会に対してあったような世の誤解とあざけりは、現在においても変わらないのではないでしょうか。このような中で、誰も自分の意志や力量によっては宣教などできないのではないでしょうか。  声を張り上げ、人々にはっきり言ったペテロの姿からキリスト者、教会の本当のあり方が伺えます。私たちも、宣教や、教会の場だけではなく、どのような状況でも、ともにいてくださる主によって謙虚にされ同時に勇気づけられる歩みを確実に踏みしめていきたいものです。

『驚き惑って』
使徒の働き 2:5-13
2001年6月10日(日)

 離散のユダヤ人たちがそれぞれの国から、おびただしい数の人々がペンテコステを祝うために、エルサレムに上ってきていました。彼らユダヤ人の多くは、弟子たちが霊の言葉、外国の言葉で、神様の御業をかたり…つまり旧約聖書とキリストを語り…神様を大声でほめたたえるのを聞いて驚きました。  使徒を始め弟子たちは当時の共通語であった、アラム語やギリシャ語は知っていました。しかし外国旅行もしたことがなかったであろう弟子たちがそれぞれ別々の国のことばで語ったのでした。いろいろな国語で育ってきた人たちの前でそれぞれの故郷の言葉で神をたたえるのを聞くことは驚きでした。そしてそれは混乱をももたらしました。そして、ぶどう酒に酔っているのだといい、この偉大な奇蹟を合理化しようとするのです。そして彼らをあざけって、この不思議な出来事を葬り去ろうとしました。  神の真理の言葉、福音の言葉は、賛美や神に対する正当な恐れを、そして他方で疑念とあざけりを生み出します。聖書で確かに繰り返される現象です。人々はそして、教会はただ聖霊の力と活動のもとで、神の偉大な業復活したキリストを知り、その証人として生きることが出来るのです。聖霊の力によって歩めるように、神を信じ、神に信頼して求めるならば与えられます。その様に歩めるならば幸いです。

『偉大な神の業』
使徒の働き 2:1-4
2001年6月3日(日)

 イエス様の弟子たちに起こった出来事、それは、神様の御霊が力を持ってそこに集まっていた弟子たちに臨んだのです。この神の霊に満たされた人々は預言や、力が与えられました。彼らは「聖霊が語らせるままにいろいろの他国の言葉」で語りだしたのでした。  この時語られた言葉、その内容はまさに「偉大な神の業」でした。聖霊が与えられたこと自体も神様の偉大な業ですが、その聖霊によって語ることができたのは神様をほめたたえることばであり、神様の偉大な業であったのです。他国の言葉で語られたということは、福音の世界宣教の準備、あるいはその前触れとして書いているということも表わしています。  現在も神の偉大な業はいろいろな国語で語られています。約束の聖霊が与られた私たちは、このペンテコステの日のように超自然的性質のものではないかもしれませんが、メッセージそのものは同じ「神様の偉大な業」「主イエス・キリストの神の国の福音」を語らせて頂けるのです。私たちの教会が、聖霊に完全に委ね、神様の声にしたがって、「神様の偉大な業」をさらに人々に広める教会になれたら、またそうあり続けることが出来るなら幸いです。