ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2001年7月]を短くまとめてのせています。

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『救われるべき名』
使徒の働き 4:1-12
2001年7月29日(日)

 ペテロたちが告げたイエス様においてアブラハムの子孫としてうける祝福の実現の言葉への反応として、抵抗する力、すなわち、ペテロの大胆な宣教は、ついにユダヤ教当局の介入を招くことになりました。  この議会で尋問を受けますがその焦点が「イエス様の権威」という大事なテーマを持っていました。まさに「イエス様の御名」こそが、事柄の中心でした。イエス様のその御名から始まった驚くべき力、わざ、権威に、実は、議会は非常に恐れ、そしていらだっていたのです。それに対してペテロは「聖霊に満たされて」弁明を始めます。  ペテロに、聖霊が語るべき言葉を与えます。この神の力にも知恵にもあふれている言葉により、議会は立場を失うのです。さばく者とさばかれる者は逆転してしまいます。そして12節ですが、これは救いがただイエス様のみから来ることを力強く宣言することばです。  救われたいと願う者は、イエス様を受け入れなければなりません。「クリスチャンにはなれない」、「まだだ」、「準備ができていない」と思われる方は、ぜひ聖書が言っていることを心に留めていただきたいと思います。その名前を救い主の名としなければなりません。理解ではありません、決心することです。そのように歩みだしていただきたいと願っています。そしてそのことを告白しなければなりません。すでにクリスチャンとされている方は、今一度それを心に留めて、永遠の命にある喜びの中を歩めるなら幸いです。それはこのイエス様の御名と共に、人間と世界の新しい意味が2000も前から始まったからです。

『ソロモンの廊にて』
使徒の働き 3:11-26
2001年7月22日(日)

 足のいやされた男に驚いた見物人の群れが、ペテロとヨハネのまわりに押しかけました。  ペテロは群衆に向かって言いました。この男を歩かせたのは、わたしたちになにか特別の力があるからではない。これは、神様がなされたことである。足のきかない男がいやされたのは、栄光をうけられたイエス様が、力あるわざを行う能力を弟子たちにお与えになった、と言うのです。  ペテロの説教に耳を傾けていたイスラエルの人々は「預言者の子孫」でした。しかし、それは、彼らが預言者たちをとおして神さまが与えてくださった約束の後継ぎであるという意味です。また、彼らは神様がアブラハムと結んだ「契約の子」しかも特別な意味での「契約の子」であったのです。まことにキリストは.そのお方においてこの祝福が実現したアブラハムの子孫であったのです。 このペテロの言葉に心動かされ、4:4をみると、「大勢信じた」と書かれています。またしても神の言葉の勝利でした。一人の人が歩けるようになったこと以上に多くの人の心が変えられたのです。  本当の祝福をうける子孫、アブラハムの子孫とは誰でしょうか。イスラエル人、ユダヤ民族でしょうか。民族なのではなくむしろ、私たち信じるものがその子孫なのです。  神様を信じて歩む決心を人々の前に現す方を、一人加えてくださいました。そのことを、このみ言葉から感謝し、またその祝福の民が増やされることを、その子孫の集まりである、教会が豊かに成長することができるようにと、続けて祈ってまいりましょう。

『私にあるものを上げよう』
使徒の働き 3:1-10
2001年7月15日(日)

 ペテロとヨハネは、足のきかない男が物乞いをしている光景に目を奪われます。そして、この男はこれまで恵んでくれた一番大きな施しよりも、はるかにすばらしく価値あるものを受け取ることになったのです。  もちろんからだを癒すということは、とても大きな力が働いたことでしょう。しかしそれ以上に大切なことも含まれているのです。人がイエス様の力によって癒されるというのはどういうことでしょうか。 カペナウムの場面(マルコ2:1-12 )で、イエス様は中風の人を、「立って歩け」といって、癒されたイエス様の言葉は、病人を癒すだけでなく、罪の赦しが確かにありました。同様に、弟子たちも、イエス様の名によって病人をただ癒すだけでなく、悔い改めた神の民に、その人の罪の赦しを「イエス・キリストの名によって」宣言する力と権威をもイエス様から受けたということではないでしょうか。  さて、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」という言葉を、現在、私達は本当に言うことが出来るのでしょうか。  この本当の癒し、罪の赦しの宣言を持っているのは私達だけです。イエス様だけです。聖書だけなのです。私達はイエス様からこのプレゼントをもらっているのです。私達自身が「ナザレのイエス・キリストの名によって、」罪の中から立ち上がって歩き出したように、金銀でもない、体が治ることだけでもない、本当の癒し、赦しを「私にあるものを上げよう。」といって人々にもたらし、宣言することが出来る幸いを持っていることを覚え、また実践してまいりたいです。

『どうしたらよいか』
使徒の働き 2:37-47
2001年7月8日(日)

 前回まで3回にわたってペテロの説教をご一緒にみてきましたが、その内容は計り知れないくらい、大きく、重い事柄でした。 そのペテロの説教には力がありました。ただ、単に聞き手の理性に罪の思いを与えただけではなく、その深いところ、良心に罪を悟らせたのでした。人々は苦しみもだえる心で、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と叫んだのです。ペテロはその人々に「それでもなお望みがある」と告げました。  そこで、悔い改めて、救われる人々、つまり、本当の神の民…別の言い方をするなら、神様が本当に求めていて、そしてその神様に本当に喜ばれる人々、その様な人々が起こされました。そしてこの後も起こされ続けていくのです。今度は民族としてではなく、「どうしたら良いのか」と本気で考え、悔い改めた人々の集まりです。これこそがキリストの教会としてうまれ、そして産声を上げたその時でした。  ペテロの説教によって心刺された人たちの「私たちはどうしたらよいでしょうか。」という問いかけにペテロが答えた答えは、まさに今の世に向けて、そして私達に向かって語られていることです。すでにクリスチャンになられている方も同様に語られている、わすれてはならない事柄であり、証しし続けていく言葉なのです。そして私達、教会はこの言葉に基づいて集められた教会であることを覚えたいと思います。そしていつも「悔い改め」と「赦しの喜び」に満たされて、満たされ続けて、歩んでまいりたいと思います。

『知らなければならないこと』
使徒の働き 2:29-36
2001年7月1日(日)

 ペテロの説教の第3回目のところです。 またしても「兄弟たち」と呼びかけ、みたび、人々の注意を促します。それほど長くない人々へのメッセージで3度も人々に対して執拗に、懇願するようにしかしこびることなく語りはじめるのです。  そしてその預言されていたというダビデの預言について、さらに詳しく説明をし、また彼らが直にその眼で見た証拠によって確証することが出来ると信じて主張するのです。そして今、目の前で生じている現象、すなわち奇跡的な言語現象は、神とともに天の王座にいるイエス様が神からうけて、弟子たちに注ぎだした聖霊の働きによるのだというのです。 そして最後の36節において、「このことをはっきりと知らなければなりません。」といいます。  歴史の暗黒、混乱を貫いて、神様の壮大な計画が実現した、それが主イエスキリストなのだ、ということがはっきりと提示されました。まさに暗い時代、人々は悩み苦しむ世、そのなかで、イエス様の十字架の最悪の死とそして、栄光の復活、それから栄光を帯びて天に昇られたことと約束の聖霊が与えられたことにおいて、神様の計画が顕著に示されているのです。この事を受け止められない、不信仰に陥るとき私たちの歴史も人生も夜の闇の中にむなしく消え去ってしまうのではないでしょうか。まさにこの主イエス・キリストを知っているのかいないのか、信じて委ねているのかいないのか、その救いを受け入れるのか受け入れないのか、知り、信じ、受け入れて主の名を呼んでいるのかいないのかということが私たちに突きつけられるのです。