ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2001年8月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


『神を欺く』
使徒の働き 5:1-11
2001年8月26日(日)

 すばらしい姿を見せていたクリスチャンの群れ、教会が、その内側の隠れた罪多き側面が、あらわにされるところです。教会の常ではありますが、その最初においても、内外の戦いというものがありました。
 今日の登場人物はアナニヤとサッピラです。この二人は夫婦でした。そして彼らは心を合せて、聖霊なる神様を欺こうとしました。「このくらい」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし罪がいかに小さくてもその存在の確かさと罪の強さを知らされる箇所です。彼らの行動よりも、行動として現れたその心の状態に原因があるのです。この「欺き」と「貪欲の罪」あるいは、「神様に対する不信仰」は、クリスチャンや教会への、そして神様への重大な挑戦です。この悪事の隠れた主人公が、じつは「サタン」である、ということも3節を見ると分かります。サタンは確かに働いて人の心を奪います。
 教会にとっても不幸な事件は、イエス様の新しい命に生きるために、どれほど自分自身との戦いが求められているかを教会内の人々に鋭く教える出来事でした。
 私たちはの「神を欺く」ということについて無知であってはいけません。人は欺くことができ、それは人に一生知られることはないかもしれませんが、神様を、そして聖霊を欺くことはできませんし、その欺こうとしていることもご存知だということです。そして、その結果を知っていたいと思います。
 それをこのアナニヤとサッピラの事件から学んで心に刻み付けておきたいと思います。そして常に自分を見張りそのための神の助けをも祈り信頼して歩むものでありえるならば、幸いです。

『信じた者の群れ』
使徒の働き 4:32-37
2001年8月19日(日)

 今日の箇所では初代教会の人々の生活の様子が伺えます。
 ここにある「すべてを共有にしていた」というのは、所有するということの意味の変化で
す。かれらは、財産を持っていましたが、そのもっている財産に執着しない自由を勝ち得たのです。「だれひとりその持ち物を自分のものと言わず」と書かれています。これは、「自分のもの」、あれも「自分のもの」という主張を、徹底して控えたのでしょう。
 私たちはここから、この彼らの純粋な信仰の姿勢と、また、「心と思い」の一致というこ
と、そして「主イエスの復活を非常に力強くあかしし」ていたこと、「大きな恵みが」あったこと、そして「ひとりも乏しい者がなかった」という愛の行為の結果が表れていたことを知らなければなりません。彼らが行っていた形態をまねるのではなく、彼らの信仰の姿勢や、純粋さに学ばされるのです。
 今日の登場人物、まさにこのバルナバを代表とする、信じた者たちの群れの姿でした。彼は、まことの救い主、イエス・キリストに出会い、その救いの恵みに触れた人物でした。彼の救い主に対する期待は、イエス様の恵みと、そして、十字架と復活、また聖霊に満たされた教会の誕生によって、裏切られることなく、むしろ期待以上であったことを意味しています。
 まさにイエス様の喜ばれる群れであったのではないでしょうか。私たちの教会もぜひ、この純粋な信仰の姿勢、や単純さ、また一致、あかし、またそこから生まれる、平安や喜びに満たされる教会へと、豊かに成長し、豊かに実を結んで参りたいと願っています。そのためには、バルナバのように、確かに救いがあること、イエス様の恵みと、そして、十字架と復活、また聖霊に満たされるということが必要です。そのことをせつに求め、また感謝し信じて歩む群れでありたいものです。

『みことばを大胆に語らせてください』
使徒の働き 4:23-31
2001年8月12日(日)

 イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝え、足のきかない男を癒し民衆に多大な影響を与えたことで、ペテロとヨハネは議会に呼び出されますが、結局、釈放されます。釈放されたペテロとヨハネは、事の次第のすべてを、信徒である「仲間」たちに報告をします。すると居合わせた彼らは、祈りをします。教会は祈りに専念することで、苦難に打ち勝つ支えを得ることができるのです。
 さて、彼らの願いの祈りの内容は、「みことばを大胆に語」ることができるようにということと、「しるしと不思議なわざ」を行うことができるようにということの2つです。私たちは、ある面で祈りの足りなさを示されているのかもしれません。その祈りは、もちろん、祈祷会の祈りや、礼拝での祈りも含まれますが、本当に心から、すべてをささげて、影で、日向で、祈ることが求められているのではないかと、改めて思わされました。祈りの内容は、個人的なこと、社会的なこと、願い、感謝、告白、賛美、とりなしなどさまざまあります。そして今日、もう一つ具体的に加えていただきたい祈りがあります。それは、「主よ。あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」という祈りです。そしてそう祈る方には、この祈りに確かに答えてくださる神の業を感じることができるようになることでしょう。

『神の前に正しいかどうか』
使徒の働き 4:13-22
2001年8月5日(日)

 足のきかない男を癒し民衆に多大な影響を与えたことで、ペテロとヨハネは議会に呼び出され、尋問されます。そして議会は、結局「イエスの名によって」語ること、教えることを禁じます。述べ伝えることの自由を抑圧するのは、世の権力が福音の力を恐れるからです。福音が得体の知れないものであるときにその力を恐れます。 「神に聞き従う」ことが、万事に優先します。「神の前に正しいかどうか」が問題なのであって、ほかの基準は、むしろどちらでもよいのです。人々は多くの場合、「神の前に正しくない」方を選びます。しかし、「神の前に正しいとき」、どんな場合でも、あらゆる問題を解決し、不安を持つことがなく、恐れを克服して立つことが出来るのです。  そのためには「神の前に正しいかどうか」という視点を持つということが大事です。その一つは聖書に照らし合わせるということです。「本当に神の前に正しいか」ということを不安に思うようなときは、ほとんどの場合、聖書に従うということ、すなわち神のみ言葉に従うことが基準となるのです。また、物事を考え、判断していくときに、「このときイエス様ならどうするだろう?」と考えることも有効ではないでしょうか。ですからそれらをぜひ実践したいと思います。  そして、「神の前に正しいかどうか」という視点を持つときに、私たちの生き方が変えられ、豊かな人生となることもまた事実なのでぜひそのように歩んでまいりたいと思います。そしてむしろ、苦しいとき、もうどうしたらよいか分からないときにこそ、静まってこのことを思い出し、そのように歩めるならば幸いです。神の豊かな平安をどうぞつかんでください。