ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2001年9月]を短くまとめてのせています。

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『神の家族』
エペソ 2:19
2001年9月30日(日)

 家族とはいったいなんでしょうか。皆さんは「家族ってなんだろう」って考えたことはありませんか? 実はともて難しい質問かも知れません。
 人類で最初の家族を知っているでしょうか。そうです、アダムとエバです。創世記2:18か
ら24までの読むとよく分かるのではないでしょうか。人に与えられた最初の家族は神様に
よって、ふさわしい助け手として与えられたのでした。つまり人間は、一人で生きられないから、ふさわしい助け手としての家族が与えられたのでした。しかしその後、罪の性質を持った人間は、人は常に家族を持って生活していくなかで、繁栄してきましたが、滅ぼしあってもきたわけです。
 それでは「神の家族」と言うことを考えたいと思いますが一言で言えば、つながりは血のつながりではなく、まるで結婚のときの婚姻関係のような他人同士の、そして、愛のみのそれこそ深い関係を「神の家族」という言葉で表しています。そして神様がその関係を作る「神の家族」ですから、最も遠い、最も家族になれない、時には憎しみすらわいてしまうもの同士が互いをひきつけ、愛し合うことができる関係である、ということです。
 次に神の家族になるということを考えたいと思いますが、そのよい例は、ルカ15:11 〜32のところの放蕩息子の話です。元々は家族であった弟息子が、自らその関係を断ち切った。しかし、かれは思い直し家に帰ったとき、父親に、再び生き返った息子として迎えられたのでした。
 ここで少し考えていただきたいのは、「神の家族になる」ということですが、イエス様を信じてうけいれることで「神の家族とされる」と言うことができます。そしてさらにいうなら、実は私たち人間は元々「神の家族」であったのをその家から飛び出し、好き勝手に放蕩しつくしてどうしようもない状態に陥っていることにたとえられます。そして、聖書は「神の家族になりなさい」と、いやむしろ「神の家族に戻りなさい」と私たちに語りかけているのです。まだその神の家族に「入る」思いがない方、「戻る」決心がついていない方、「イエス様とその救いを」自分のものとしていない方、是非、神の家族になるチャンスを逃さないでください。そしてその家族はあなたのために命をも投げ出して助けてくれます。救い出してくれるのです。また、その家族を助けることもできます。そのすばらしい家族の一員を増やすという特権も与えられています。その家族とは離れることなく、ずっと一緒です。永遠に過ごすことができるのです。
私たちは、神の家族なのですから・・・。

『恵みと力と知恵と御霊』
使徒の働き 6:8-15
2001年9月23日(日)

 この選ばれた7人の1人ステパノは、「すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。
」とありますように、人々の注目や尊敬を集めると共に、反発も招いたようです。「リベルテン」という言葉をさす解放されたユダヤ人奴隷たちの集会にとって、ステパノのわざや語っていたことは許しがたいものだったということでした。しかし、「それに対抗することができなかった。」とかかれているように、正面からの論戦に、彼ら「リベルデンの会堂に属する人々」は敗れたのでした。それは、ステパノが「知恵と御霊によって語っていた」からであると記されています。
 すでにステパノが、恵みと力とに満ちた人物であったこと、そして知恵と御霊によって語
る人物であったということがわかります。ここにある4つのキーワードすなわち「恵み」「力」「知恵」「御霊」についてお話しをすることにいたします。
 実はこの4つのキーワードは2つずつの語に分けることができると思いますが、それは、一般的には、相反する語です。それは「恵みと力」と「知恵と御霊」です。皆さんはこれを「別に相反することば」だとは思われないかもしれません。この「力」や「知恵」が決して悪いものではありませんが、「恵み」は神からのものですが「力」は神からのものとは限りませんし「御霊」は神からのものあるいは神ご自身ですが、「知恵」は神からのものだけではなく、むしろ人の知恵として使われることが多いのではないでしょうか。
 このステパノという人物を見るとき、そこにあるのは「神の恵み」であり「御霊」であるのです。私たちも、「神の恵み」と「御霊」に満たされているかを吟味しなければなりません。その意味は、恵みある力であり御霊ある知恵であるということを覚えておかなくてはならないでしょう。ぜひそのことを覚えて考え、行動し、歩む人生でありたいと思います。

『こうして神のことばは』
使徒の働き 6:1-7
2001年9月16日(日)

 今回から、6章に入ります。実は、ここで大きく区切れるところでもあります。前回の5章までは、一言で言えば、教会の誕生が描かれていました。その誕生は、決して安産と呼べるものではありませんでした。しかし誕生した教会は、多くのクリスチャンを起こしさらに大きくなり、大きな産声を響かせたのでした。さてこの6章からしばらくは、教会に対する迫害の現実と、教会の拡張、そしてそれらが何人かの人物に焦点が当てられるのです。
 今日の箇所はその何人かの人物のひとり、ステパノを含む7人の奉仕者が選ばれ、任命されました。事の起りは教会の人々が増えるに連れて起きた、ことでした。「ギリシヤ語を使うユダヤ人たち」の「やもめたち」が、毎日の配給で「なおざり」にされているという訴えでした。
 そして、その解決となる使徒たちからの提案の精神は「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません」ということばに言い尽されています。大事なことは常に神のことばを第一にすることです。今日でも、奉仕も、礼拝も説教も聖餐式やバプテスマ式も、事務的なことすらも神のことばの最優先性を私たちに語っています。そして問題は解決し、さらには、7節に「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」と記されているとおりです。
 社会では大変なことが起きています。また、これからも、社会は、そしてその罪ゆえに人々は、恐れながら、それでいて、止まらない暴走を繰り返します。しかし、すべての問題に対して、「神のことば」を第一とするとき、教会のもつ聖書の力、神のみことばが人々
に染み出して神の力に満たされていくのです。

『神から出たもの』
使徒の働き 5:33-42
2001年9月9日(日)

 今週の箇所は、弟子たちがはっきりと宣教し宣言し、証言して語ったことばに対しての反応ですが、なんと、5:33「彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。」と書かれています。なんとも物騒な表現ですが、権力者たちのまさにその気持ちをよく表すことばです。
 そのような中、律法学者であるガマリエルという人物が立って、議会に慎重な判断と行動を促しました。ガマリエルの結論は「手を引き、放っておきなさい」というものでした。「もし、その計画や行動が人から出たものなら」、必ず自滅するのです。それは歴史が間違いなく証言する通りなのです。このことばはペテロの「人に従うより、神に従うべきです。(29説)ということばと同じ響きを持っています。「彼らを滅ぼすことはできない」と語っただけでなく、「もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」という結論を、的確に、はっきりと、誰の目にもわかりやすく述べて終わります。
 私たちの歩み、「その計画や行動が人から出たもの」とならないように願います。私たちの歩みは自分で歩んでいるように思えますし、そのように歩みたいものですが、それこそ「自滅してしまう」歩みなのです。反対に、「もし神から出た」歩みをするならば、決して滅びることなく、滅ぼされることなく、むしろ、敵対するものを滅ぼしてしまう力をもつ歩みとなるのです。「神から出たもの」とは「聖書に生きるもの」「みことばにしたがって生きるもの」「イエス様の歩みに従って歩むもの」ということです。ひたすら、神に自我を砕かれて、神に信頼した、そのような歩み、生き方を選び取っていけるならば幸いです。

『いのちのことばを』
使徒の働き 5:12-32
2001年9月2日(日)

 この箇所は、前回の話を払拭するかのような豪快で、かつ信じがたいくらいすばらしい出来事が起こってまいります。以前の「しるしと不思議なわざを行なわせてください。」との祈りが聞かれていくことを聖書は私たちに知らせてくれます。
 さて、4章に続いて2度目の逮捕劇です。前回はペテロとヨハネだけでしたが、今回は、使徒の全員が捕えられた模様です。逮捕された理由は、「ねたみ」だったことが記されています。神の働きで人が癒されること、人が幸福になること、人が喜ぶことを謙虚に喜べない時、人はねたむ心を起します。「人の不幸は蜜の味」なのです。ところが、すぐさま神様は「主の使い」を派遣して介入されます。20節は、今日の題にも上げさせていただきましたし、また今週のみ言葉でもあるのですが、神様からの力強い励ましであり、彼らがこれからどうしたらいいのかを指示されます。この「いのちのことば」とはまさに福音であり福音とは、よい知らせという意味ですが、イエス様の十字架と復活であり、それによって「私たちの罪が許された」「私たちの問題が解決された」という神様からの宣言の言葉です。この「いのちのことば」を述べ伝えることは、本当の命を与え、永遠の命に招くということなのです。そして余す所なく、「ことごとく」その福音を宣教しなさいと、神様は励まされます。
 私たちは世に氾濫していることばに埋もれないでいたいと思います。いのちのことばとはまさに聖書であり、イエス様のことばであり、救いの宣言のことばであるのです。私たちは、この「いのちのことば」を聞き、受け入れ、保ち、語るものとなりたいと思います。