ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2001年10月]を短くまとめてのせています。

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『いつも聖霊に逆らっている』
使徒7:44-53
2001年10月21日(日)

 ステパノは訴えられましたが、弁明のチャンスが与えられたのでした。今回はその「ステパノの演説」の最後の部分です。
 前半のところは、先々週のアブラハム、ヨセフ、そして先週のモーセにつづいて、今度は人物ではなく幕屋という旧約聖書の題材を基にしてステパノは語り続けます。
 幕屋というのは、イスラエルの民が、約束の地に入る前で、神様が指示された、神様を礼拝する唯一の場所、神様が民と共にいるということの象徴として神様が用意された特別な場所でした。何も無い広大な荒野に突然の閉ざされた、区切られた空間です。
 ステパノははっきりとそして繰り返し言ってきたように、イエス様についてをここでも伝えます。それはメシヤであるイエス様ご自身が永遠の幕屋でありそれを完成した今、神殿礼拝は終りを告げたのであるということでした。
 こうしてステパノは、すべての聖書の真理と、神様の言葉を余すところ無く語り終えました。神様は、皆さん一人一人にも、神様の民イスラエルに語るのと同じく語っておられます。
 イエス・キリストがすべてか、第一か、信じるのか、信頼と信仰を置いているのか、おき続けているのか、「聖霊に逆らってい」ないのか、と。これらの点検項目を忘れず常に点検することを忘れないようにしなければなりません。そして神様にある幸いと平安、同時に聖書を貫くイエス様の恵みのうち歩めるならば幸いです。

『モーセ〜選びと現実と歩み〜』
使徒7:17-43
2001年10月14日(日)

 「ステパノの演説」の真中の部分です。ステパノは話題を旧約、新約聖書中でももっとも有名な一人であるモーセと、イエスさまとの共通点、似ていることを根拠にして、「律法」も「預言者」もイエス様において成就したという大胆で、これまでになかったしかし、神様がはじめから示されておられた歴史理解を人々に提示しました。
 この箇所から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。これはモーセの時代である旧約の時代、そしてステパノの時代である新約の時代、さらには私たちのこの現代に当てはまることであるのです。
 このモーセの時代に人々はモーセに対しても、また神様に対しても不従順で、自分勝手でした。それは、自分というものを神としてしまう奥深い罪に気がつかず、目を向けなかったからです。
 では、このステパノの演説で語られたこれらのことを聞いていた彼らは、どうだったでしょうか。モーセについて理解していながらも、イエス様については理解しませんでした。それは、彼らが変えられることを恐れたからでした。もちろん今のこの日本において、神を信じないで自分勝手に生きている人たちは多くいます。恵み深い神様は待っていてくださるのです。その恵みをいつも思いたいと思います。それよりも、クリスチャンたちに対してはどうでしょうか。旧約聖書はモーセを通して人間の罪深さを知らせます。ステパノも人間のかたくなさをはっきりとあらわします。これを読むクリスチャンは、自分のこととして、心砕かれたいものです。その心砕かれること、悔い改めに導かれることが神の御心であると思わされます。そのように歩めるとき、神様の本当の幸いが満ちるのであると思わされます。

『アブラハム、ヨセフ』
使徒7:1-16
2001年10月07日(日)

 ステパノは論戦に敗れた人たちに、訴えられ、弁明のチャンスが与えられたのでした。今回はその「ステパノの演説」の最初の部分です。
 ステパノは「旧約聖書」、イスラエルの歴史、イスラエル民族の歴史を詳しく物語ることによって、「福音」を証言していきます。
 始めにアブラハムです。彼は、私たちにとっては、信仰の父とも呼ぶべき人です。彼はある日突然、神様の声を聴きます。そしてその話す内容は『彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される。』というものでした。しかしアブラハムは「これぞ本物」と従う決心をします。この決心こそが、まさに「信仰」そのものであったわけです。
 神様が語り、その言葉に人が従うのです。それこそがアブラハムの信仰であり、神の民の信仰の原型であるといえます。そしてその信仰が神から私たちに求められていることなのです。
 ヨセフの苦難の姿はイエス様の、十字架の苦難と二重写しで語られています。それは一言で言えば「苦難から最高の栄誉へ」ということでしょう。イエス様においてと同様、ヨセフの生涯においても、すべてを統治されて計画を進められる、神の摂理が勝利を収めるのでした。
 この箇所では、神様の救いの計画が、そしてその姿としての信仰の原点が静かに語られるのです。ステパノが伝えようとしてこと、つまり、本当の救いはイエス・キリストにある、その苦難の姿に栄光が帰されるのだということを、もう一度知り、心に留めたいと思います。そして私たちに求められていることは、信仰の父アブラハムの姿、みことばに従うアブラハムの姿を再発見し再びここに立ち返り、歩むことなのです。