ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2001年11月]を短くまとめてのせています。

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2001年11月25(日) 『“導き”ということ』 使徒8:26-40

 ピリポの続きのところです。題は「“導き”ということ」ですが、語られている、三つのポイントがあります。
 一つ目は、確かに神様の「導き」があるということです。それを、あまり感じていない私たちがいるのではないでしょうか。ピリポには、「主の使い」や御霊の導きがあったことが書かれていました。そして、宦官の男も導かれて、バプテスマと聖霊と喜びが与えられました。私たちは、祈りを持って、またみ言葉をもって、また交わりをもって、神の導きに耳を傾けるならば、確かに最善の道が開かれることも覚えたいと思います。
 二つ目は、「導き」には「従う」ということです。ピリポも、一見不可解な導きに従いました。そこには、自我や頑固さというものは見えません。宦官の方は、この「導き」を確かに勝ち取っていく姿が見えます。そして、それに従い、その恵みをいただいています。この姿を私たちはもう一度覚えて、神様に従う幸いを持ちたいと思います。
 三つ目ですが、「導き」に従う結果、「喜び」や「平安」、「幸い」がおとずれると言うことです。自我でがんばって、こうしたほうがいい、こうに決まっている、と思っている時には、一時的には平安が得られるかもしれませんが、次の渇きが必ず起ります。決して終わることのない欲望に支配されます。反対に導きを信じ、それに従い、神様に委ねることは、不可解に思えても、渇くことのない、平安と喜びに満たされるのです。それは人間の努力を無にして、しかし、ただ恵みだけ、信じることによる、とされた、福音の豊かな力であることを覚えたいと思います。また、そのような人々で満たされる教会は、喜びと平安の耐えない、魅力的な教会となることでしょう。そのような教会でありたいと願います。

2001年11月18(日) 『心に抱いた思い』 使徒8:14-25

 物語は、いまなお紛争の地である、エルサレムからサマリヤ地方へと場所を広げて展開しています。そして選びの民でないサマリヤの人々がなんと次々に救いに入れられ使徒であるペテロとヨハネが派遣され聖霊がくだります。
そこに、先週も出てまいりました、魔術師と称されるこのシモンという人物は、なんと弟子たちが祈って与えられた聖霊を授ける権威を金で買おうとしました。ペテロは激しくそのシモンの罪を責めます。
 福音が伝えられていく先々で、あらゆるものとの出会いが起きます。食事のことから国家間の問題まで、一切のこととの接触を余儀なくされます。それは生きている人間が持つすべての問題なのです。
 ここに出てきた、魔術や占いは、「現代的な問題ではない」と思われる方もいらっしゃると思います。しかし歴史を超えて、現代との共通する点として、それは、偶像礼拝や、天皇制などの、人間崇拝主義はもちろんのこと、やはり経済活動や、権力、名誉という人間の基本的欲望と結びついて現れてきます。魔術的なことと相容れないような現実的な物質的な世界とは実はもっとも深く関わっているのです。
 聖書は、神以外で、人間を支配しようとする力を悪魔、とか悪霊と呼んでいます。その力は、私たちが頭で考え、理性で理解し、廃除しようとしてもできるものではないようです。「それではどうしようもない。」としか言えないのでしょうか。そうではありません。
常にそれらに反して私たちが持っているものが、福音の力ではないでしょうか。福音は、聖書は、イエス様は、御言葉は、常に、必ず常にそれらの悪の力に対抗されて存在しています。
 そこで、皆さんに覚えていただきたいのが、今日題に上げさせていただいた「心に抱いた思い」です。私たちが必要なのは「心」が神様に支配されることをめざし保って歩んでまいりましょう。

2001年11月11日(日) 『神の国とイエス・キリストの御名』 使徒8:1-13

 「ステパノの殉教」をきっかけとして、なんと福音がユダヤの枠を越えて、広がり始めていくのです。特に地理的な意味で宣教が拡大してまいります。今日の箇所を、1−3節、4−8節、9−13節の3つに分けたいと思います。
最初の箇所は迫害が語られました。確かに迫害はあります。しかしこのことは、先週もお話させていただきましたが、それに打ち勝っていく歩みこそがクリスチャンの歩みといえるでしょう。打ち勝つとは、キリストが私たちを捨てなかったように、イエス様を見つめて、離れず、けっして捨てないことです。
第2の箇所ですが、ここでは、信徒による伝道が活発になることが語られています。伝道や宣教が特別な誰かのものではなく、キリスト者一人一人の、しかも責任や義務というよりむしろ、神様からの恵みであり、喜びをもたらすものであることが語られていました。これはまさに「「神の国とイエス・キリストの御名」」そのものであり、それを伝えることの栄光と喜びを表しています。
 最後の部分ですが魔術師シモンという人部が登場しますが、この箇所は、まさに「神の国とイエス・キリストの御名」こそが私たちの生き方の中心であると思わされるのです。他の事に惑わされ、魔術や、名誉や、「自分を偉大」としたい願いや、そういうものとは反する「「神の国とイエス・キリストの御名」」の、何にもまして麗しく偉大で、愛と栄光に満ちたものを、私たちは頂き、またそれを楽しむことを許されている存在であることを思わされます。
 是非、今日、「神の国とイエス・キリストの御名」の生き生きとしたその恵みを今一度かみしめて、励まされて歩もうではありませんか。

2001年11月 4日(日) 『殉教』 使徒7:54-60

 ステパノは、アブラハムとヨセフ、モーセ、そして、幕屋について語りつつ、それはすべて、われらがイエス・キリスト、あの有名な十字架の主、復活の偉大なる人間にして神であるお方につながっているのだ、と語ったのでした。その「ステパノの演説」の長い箇所は3回に分けて、見てまいりました。
 さて、そのステパノは殺されます。名目的には死刑となりますが、実際は陰湿ないじめの末の殺人です。リンチでした。しかし、そのような死に方ではありましたが、ステパノは最後までキリストに倣って、イエス様を告白して、天に召されていきました。
 まさに、キリストを告白するとは、イエス様の歩まれた道を「キリストに倣って」歩むことなのです。イエス様を証言して、キリストの証人としての道を歩き終えて、ステパノは眠りにつくのでした。
 ステパノのような歩みを私たちに求められているとするなら、どのように歩むべきなのでしょう。人間は死ななければならない存在です。であるなら、キリストとともに歩む人生を全うしたいと思います。その意味ではクリスチャンを全うして歩み、クリスチャンとして天国での永遠に生きたいと思います。それが、いつの時代においても、本当の意味での
殉教です。
 もう一つ、殉教という言葉は、「証し」を意味します。つまり、証しの人生、「イエス様を信じています」と告白し、時には人にも伝え、時にはそういう態度で接し、まさにキリストの香りを放つ、地の塩として塩気をもつ、世の光として光り輝く人生でありたいと思います。