ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2001年12月(待降節)]を短くまとめてのせています。

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2001年12月30(日) 『感謝』 詩篇103篇1節〜22節

 感謝はクリスチャンの特色です。大学受験にはどこどこ神社、交通安全はどこどこ神社、初詣は何々神宮と、日本人はお願いをしに神社やお寺に行きます。しかし、合格の感謝に行くとか、一年間交通安全だったから感謝に行くということをあまり聞いたことはありません。しかし私たちは、願いと共に感謝をささげるクリスチャンです。しかも、聖書はその感謝すべき恵みを「何一つ忘れるな」と私たちに教えてくださいます。
 感謝は、理由も様々ですが、聖書において繰り返し奨励され、また実行されています。すべてその根底に万事を支配する神御自身とその摂理に対する感謝があるのです。主イエス・キリスト御自身も、多くの感謝をささげ、使徒たちもあらゆる機会に感謝をささげています。ピリピ4:6「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈り
と願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。願い事の羅列ではなく豊かな感謝が教えられています。
 キリスト者生涯が本当に麗しいのは、神さまへの感謝に満ちていることではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(Tテサロニケ5:16‐18)は、キリスト者の本当に麗しい生き方の真骨頂です。
 もちろん、もっとも大切で決してこれだけは忘れてはいけない感謝は、私たちを「救い出してくださる」という絶対的な希望にたいしてですが、去年一年間の先月一ヶ月間の、先週一週間の一つ一つの恵みは決して少なくなかったはずです。一つ一つを思い出し、感謝しつつ歩みたいと思います。

2001年12月23(日) 『羊飼いの礼拝』 ルカ2:8-20

 クリスマスおめでとうございます。ともに喜びのクリスマスを過ごすことができますことを本当に楽しく、また、うれしく思います。
 ルカは、マリヤがダビデの町ベツレヘムで、男子の初子を出産したこと、羊飼いたちが地上でその幼子について聞き、しるしによって、人々に伝えた最初の証言者となった事を述べています。
 主の御使が、主の栄光の顕現の中に羊飼たちに伝えた「大きな喜び」とは、全人類のための待望の救い主の誕生でした。人々をその罪から救い、贖い、解放する方の誕生でした。
 羊飼たちのように「大きな喜び」を本当の意味で味わうには、「喜びのしるし」の発見、すなわち、「救い主との生ける出会い」しかありません。キリストこそ喜びのしるしです。彼に出会うことではじめて、喜びを知るのです。
 そして、そのしるしは世的には小さいという事です。救いの道は狭いとかかれているようにそれを見出すのは、困難であるという事です。では誰が見出しうるのでしょうか。それ
は、羊飼いたち同様に、小さいもの、自分を小さいとするものではないでしょうか。また、単なる喜びと、キリストというしるしを伴う喜びは違うということです。キリストというしるしを伴う喜びは、霊的領域における喜びであるという事です。
 私たちキリスト者は、イエス降誕の歴史的事実を年毎に迎えるに当たって、その意義を
知っていても、「人びと」は、この事実すらも正しく知らないのです。羊飼いが礼拝したように、いま、クリスマスの喜びをかみ締めつつ、礼拝し、神を崇め、また、午後の楽しい、祝福のひとときを、イエス様というしるしを思い抱きながら過ごせるクリスマスであるなら幸いなことです。

2001年12月16(日) 『降誕』 ルカ2:1-7

 著者ルカはイエス様が、ユダヤの王ヘロデ、ローマ皇帝アウグスト、シリア総督クレニオなどが支配して動かしている歴史の只中で生まれました。まるで歴史の大海の中にあって大波にもまれる木の葉のように、揺れ動くヨセフとマリヤの初子として、イエス様が誕生されたことを描き出します。
 また、ルカは全世界の人口調査と関連付けられることによって、確かにこの歴史の中で起こった出来事として語ります。これらの出来事は世界の歴史の大きな動きの外で起こった事ではなく、その只中で起こった、誰も知らないようなわずかなこと、ごく小さな、隠れた出来事でした。
 しかしどうでしょう。この小さな出来事は、今世界中で知られています。人の目には小さ
な誕生の出来事にみえることです。しかし、神様の目では大きな、私たちにとっての喜ぶ
べき事柄でもあるのです。小さな出来事は大きな喜びでした。なんという不思議ではありませんか。
 今年一年を振り返っても、この世界の中では、大きな悲しみがあります。大きな悲惨な出来事があります。しかし、神様は、小さな出来事を、大きな喜びとしてくださるお方なの
です。
 神様にあって、私たちは小さなことを小さなこととしないで、喜んでいたいと思います。私たちの世の中の常識は神様の常識ではありません。クリスチャンの常識は神様の常識です。どうぞ、イエス様にある喜びをもって、歩みたいと思います。
 この小さな誕生の記事を大きな喜びとして覚えたいと思います。

2001年12月9(日) 『賛美と喜び』 ルカ1:39−56

 先週から始まりましたアドベントも第2週に入りました。
この賛美の歌と喜びに満ちている「マリヤの賛歌」は自らの低さ、へりくだりの様子と神様の、豊かさや高さ、偉大さなどを豊かに表現して賛美と喜びを表しています。
「賛美をする」とはどういうことなのでしょうか。賛美とは、神様を褒め称えること、神様の偉大さ、力、聖さ恐るべき方であることその永遠さ、などを改めて言うまでもないことではあるかもしれませんが、それを言葉に表すことであると言えるでしょう。
 日本人は、「分かっていることを口に出して言うのは恥」という文化を持っています。そのような文化の中にあって、「賛美します」とか「褒め称えます」というのは、なかなか中身を伴いにくいのかもしれません。しかし、是非、私たちは、今日、このマリヤの賛歌に倣って、神様を褒め称える、豊かに賛美申し上げる、たたえ、あがめる、信仰の歩みを見なおしたいと思います。そして、それには「よろこび」も伴うものです。これは喜ばなくてはならないというものではなく、むしろ私たちに対しては「喜びをもっと表していい」ということではないでしょうか。
 イエス・キリストは悪と罪と死を打ち破るために、一人の小さな存在である、マリヤを母としてお生まれになりました。そのことを覚えて、心から賛美をし、喜びたいと思います。心からの賛美を口から出し、体全体で表し、喜びを表したいと思います。そのような大胆で、高らかに神を褒め称えながら歩む信仰生活でありたいと思います。

2001年12月2(日) 『おめでとう、恵まれた方』 ルカ1:26-38

 いよいよ12月に入りました。今週からクリスマスの待降節、つまりアドベントに入ります。通常4週にわたってクリスマスを迎える準備と私たちの喜ぶ思いの高まりを毎週感じるときです。いまから約2千年前、世の光である方、「聖なる者」、「神の子」であるかたが生まれたのがクリスマスです。
 後に「神の子」と呼ばれる赤ちゃんの誕生には、当時、話題になるわけでもなく、また、国中で、あるいは現在のように世界中で喜びに沸いたわけではありませんでした。もちろん一部の、神様に示された人たちの間では大きな喜びであったようですが、それは人の世にあって、様々な思惑や、悩みや、苦悩や、考えさせられるようなしかし、小さな小さな事件でもあったわけです。
 28節は、今日の題にも上げさせていただいた、神秘的で感動的な受胎告知の場面はしばしば、絵画でも表されて有名なシーンです。御使いの第一声は「おめでとう」でした。じつは、もともとの意味は、「喜びなさい」あるいは「喜べ」という命令的な表現です。しかし、処女マリヤは「ひどくとまどって」とか「考え込んだ」とあります。しかし、「怖がることはない」と、すぐさま御使いの言葉が続きます。そして、「神から恵みを受けた」のだと。
 今日の箇所は、たしかに、直接的にはマリヤにたいして「おめでとう」といわれています。しかし、同時に、私達にも「おめでとう」といわれているのではないでしょうか。いわれたら、神様に「ありがとうございます」といえます。これが本当のそして素直な感謝です。みなさん、もうすぐでクリスマスです。おめでとうございます。それは、この生まれたお方は、私たち一人一人と関係しているのです。あなたの永遠の命、天国への道と深く関係しているのですから。
 神様から「おめでとう、おめでとう、恵まれた人たち」といわれて、ともに喜び合う、そして神様に「ありがとうございます」と言う、クリスマスの時期を過ごしたいとおもいます。