ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2002年1月]を短くまとめてのせています。

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2002年 1月 27(日) 『教会の平安と前進』 使徒の働き9:19b-31 

 今週のみ言葉にも上げさせていただきました31節です。ここに書かれていますように、「平安を保ち」というこの平安は教会に与えられたものでした。この平安は、サウロが迫害をやめてクリスチャンになったことから平安になったのだということではありません。
 教会は、迫害と平安が対照的にかかれているというより、むしろ、同じ状況、同じ背景の中で書かれています。この時期の教会における迫害は、ステパノの殉教に始まり、エルサレム教会の大迫害、さらにはその逃げた人たちに追っ手がかかり更なる迫害が行われ、ダマスコでのサウロの回心から始まるまたしても迫害、また12:2では、「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」とありますように使徒のヤコブも殉教していきます。最初の教会は決して平和だったとは思えません。
 にもかかわらず、教会は平安を与えられていました。キリストによる平安は迫害の嵐の真っ只中において与えられる平安であるのです。そしてますます前進するのです。彼らは、「主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて」とありますように、主をしたい恐れ、また聖霊の業が働くなかで歩んでいました。その結果、豊かな前進を体験していくわけです。彼らの平安の土台は、「主を恐れること」とそのことによって与えられる「聖霊に励まされる」ことにありました。今日の私たちはどうでしょうか。主なる神様に対する恐れを見失いがちではないでしょうか。主を恐れなくなると、この世が恐ろしくなり、権力が恐ろしくなり、病気が恐ろしくなり、自分の今の現状が恐ろしくなります。
 ぜひ私たちも、「主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて」とありますように、主をしたい恐れ、また聖霊の業が働くなかで歩んで参りたいと思います。その結果、豊かな前進を体験していきたいと願います。

2002年 1月 20(日) 『目からうろこ』 使徒の働き9:10-19a 

 このサウロは特別な体験をしましたし、このような体験をしたら私だって回心をすると思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし考えてみてください。かれは、全くの正反対、しかも人殺しまで認め、また認められるほどの人物であったのです。その彼がこの「目からうろこ」の体験を通して、心だけでなく人の目にもはっきりと分かる形で彼は変化が起こったのでした。
 私たちは、聖書を読み、またすでに神様の言葉を聞いていますが、「ただ聞こえている」だけで、心でとどまっていないのかもしれません。素直でない態度をとります。しかしこ
れは神様が求めている態度ではないのかもしれません。神様は、このサウロのように、徹底的に砕かれた、純粋、単純、素直さを求めています。
 またこの素直さをすぐに忘れてしまいます。サウロこの後も、神様に対して純粋で裸でまっすぐでした。クリスチャンになった私たちも初心を忘れないことの大切さを知らなくてはいけないでしょう。またもしそれを失っているなら初心に戻る事の大切さを覚えましょう。それぞれのクリスチャンの初心・・・それは、それぞれが「目からうろこ」が落とされたときだったのです。
 すでにイエス様の声を聞いて出会っている皆さんの生き方、歩みの原点にもう一度目を向けていただきたいと思います。まだ「目からうろこ」が落ちていない方は、すでに呼びかけられている神様からのメッセージを聞き流さないでください。また、うろこが取れたは
ずの目がまた見えにくくなっておられる方がいらっしゃるなら、ぜひ、原点に戻って、何度でも目からうろこを取っていただきつつ歩まなくてはならないのではないでしょうか。

2002年 1月 13(日) 『サウロに起った事』 使徒の働き9:1-9 

 クリスチャンたちを迫害していた、中でも最も過激で有力な人物、サウロが今日の主人公です。このサウロに何が起ったのでしょうか。
 サウロが迫害していたのは、自分が仕えていると思っていた主なる神様でした、迫害していたのは主なる神様の御子、イエス・キリストであったのです。そのイエス様からの光と
声、そしてその言葉を聞き、目も見えずただ他人に助けられて時を過ごすことだけが残されました。
 彼に起った事、それは異常体験ともまた奇跡的なことともいえる体験ではありましたが、しかし決定的なことは、イエス・キリストとの出会いでした。このような特別な体験のみがイエス様との出会いというわけではありませんが、サウロはこのようにしてイエス様と出会っていったわけです。イエス様との出会いが引き起こすことというのは、サウロも、
また私たちも、同じことが言えます。それは変化がおきるということです。変わる、変われるということです。また変わるということは打ち砕かれたということを意味します。サウロは、粉々に砕かれ、彼の自我というものが殺された瞬間でした。これが今日、私たちに聖書が語りかける「サウロに起こったこと」です。この大きな転換は私達にも起ります。また起こったことでしょうし、もうクリスチャンになったから大丈夫ということではなく、砕かれないところがあればこれからでも、起ることでしょう。しかし神様は、これらの体験を、最善のものとして与えてくださることだけは、間違いありません。
 皆さんにも様々なことが起ります。そのとき、それは神様からのことだと知ってください。そして何を求められているのかを知ってください。その声に従う人生は、誤りなき、ま
た恵み豊かなものとして確かに神様は与えているのだということを覚えて歩むならば幸いです。

2002年 1月 6(日) 『望みを抱いて喜び』 ローマ12:9-21 

 今回の中心を、12節において考えてみましょう。 直前では、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え」ること、直後では聖徒たちを助け、他 人を助け支えることを薦めています。
 今回の箇所全体では、「悪ではなく善を」、「一致 して一つ心になること」「共感をし同情と尊敬を持つこと」そして「愛」の薦めであるわ けです。そこで大切なこととして加えられているのが、この12節の「望みを抱いて喜び、 患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」というところです。連合のテーマはただ「望み を抱いて喜び」というところです。「喜び」できってしまうと、すこし変な日本語かもし れないと思われるかもしれませんが、実は現代的に大切な、この後に続く、「患難に耐え 、絶えず祈りに励」むということを思い描くことができる点においては、とても優れたテ ーマであると思うのです。
 現代は望みなく喜びなく、ただ困難と、苦しみそして争いと悲しみが支配しているように 見えるかもしれません。しかし、そんなこの世に私たちがあわせるのではなく、「望みを 抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励」む私たちの生き方を積極的に、自信を持って 、そして確信と笑顔をもって歩めるならば幸いです。いや、そのように歩みたいと強く強 く願うものです。
 私たちには祈りがあります。神様によって苦しみに耐える力と脱出の道 が備えられています。ですから恵みを忘れずに、望みと喜びを抱いて歩む歩みを目指し、 また実践してまいりたいと思います。 そのような一年を歩みとおしたいとみなさんと、改めて強く願い祈りたいと思います。