ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2002年2月]を短くまとめてのせています。

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2002年 2月24(日) 『福音と聖霊』 使徒の働き10:34-48 

 44節に「みことばに耳を傾けていたすべての人々」に、「聖霊がお下りになった。」とあります。その場にいた人ではなかった。題にもあげましたが「福音と聖霊」、あるいは、「みことばと神様の働き」、「みことばと聖霊」とは非常に深い関係にあります。
 聞くものの信仰にのみ基づいて、聖霊が注がれたということができます。このことはペテロが説教でかたった「信じる者はだれでも」ということの実現です。一緒に来ていたユダヤ人キリスト者たちは、異邦人にも聖霊が注がれたことに驚きを隠しません。そして、その聖霊を受けた彼らに、水の洗礼を差し止める理由はもう何もないと、ペテロは言います。異邦人が洗礼を受けることに対する、クリスチャンたちの代表である使徒ペテロの権威のある承認ですが、しかしその決定を導いたのは、聖霊の自由な恵みにほかならなりません。
 題にあげさせていただいた「福音と聖霊」ですが、福音とは何でしょう。それは、みことばによって、許されたことを知ることです。ゆるしを「ありがとう」といって受け取るかどうかということです。聖霊とは何でしょうか。許しの確信です。救いの確信です。
 「みことば」によって、「ゆるし」の中をあゆむとき、聖霊が働かれ、聖霊が助けてくださり、主と共に聖霊によって歩むことができるのです。いつもみことばに触れ、許しのなかを歩んでいることをいつも思いつつ信仰の歩みをまっとうできるならば幸いです。

2002年 2月17(日) 『どんな人のことでも』 使徒の働き10:17-33 

 「何かと敷居が高い」、といわれるキリスト教会ですが、近年特によく使われるようになった「バリアフリー」についてはやはり無視できません。物理的な意味でも大切ですが、それ以上に、精神的、信仰的な「バリアフリー」についても問題意識を持つべきであるでしょう。
 28節ですが、「どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならない」とあります。
 ペテロの幻の意味は「どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならない」ということでした。幻に見た動物や鳥は、「人のこと」を指していました。そして汚れた動物などは、自分たちがタブーとしてきた人たちのことをさしていました。異邦人への宗教的な偏見は取り除かれなければならないのでした。
 私たちは、人と人を比べたり、人のことを偉くしてしまうことがあります。たしかに、私たちクリスチャンはこの世の中と一線を画さなくてはいけませんが、教会に行くと「クリスチャンとノンクリスチャンを分けられる」という批判を聞いたことがあります。確かにそうかもしれません。
 教会の、そして信仰のバリアフリーを考えるとき題名に上げました「どんな人のことでも」聖書と神様と救いと福音の前では、変わりなく同じであるのです。聖書はそういっています。そして私たちの教会もそのように偉い、偉くない、きよい、きよくない、救われている、救われていないということではなく、すべてがイエス様の十字架によって身代わりにしなれたことによって、救われようとしている人であるということを忘れずに信仰の歩みをし、また宣教に励みたいと思います。

2002年 2月10(日) 『神の幻』 使徒の働き10:1-16 

 今日の題に上げましたが、この箇所から、「神の幻」と私たちとどのように関係している
でしょうか。私たちは「神の幻」に従うことが求められています。
 現代ももちろん、今日の箇所のように幻を与えられることもないとはいえません。しかし、今日的な「神の幻」とは、一人一人がそれぞれ与えられて確信を持って進むことができる神のみ言葉であると言っていいのではないでしょうか。
 そして神様のみ言葉は、大切なことをすでに何度も何度も語っています。私たちは、み言葉を通して何度も戒められ、慰められ、導きを与えられています。それらを、幻として、また、神への期待を幻として、時にはペテロのようにじぶんの思いや願い、それは、たとえ神様にふさわしいと自分で思っていたとしても、それと異なることもありえます。
 しかし、ただ神様に従って歩むことが求められているのです。私たちは「神の幻」によって、み言葉によって確信することができるのです。そのときに私たちは、あっちのほうがよかったとか、あの時は失敗だったとか、迷うことなく確信を持って歩むことができる、そして、神様が祝福と恵みを持って歩ませようとしておられる道を歩むことができるのです。
 そのために、「神の幻」を、見逃さないでください。神の声を聞き逃さないでいただきたいとおもいます。そうして、確信を持って、また時には迷うことがあっても、ただ神様に信頼してその確信に立ち返ることができること、神様が祝福と恵みを持って歩ませようとしておられる道を歩むことができるならば幸いです。

2002年 2月 3(日) 『癒しと命を与える神』 使徒の働き9:32-43 

 病気や死の力の侵入とそれによって呼び起こされる悲しみは、昔も今もほとんど変わりがありません。みなさんの一人一人も、また、私たちの教会も、常にこのような重荷を負い、悩みを知り痛みを経験しています。教会に属する私たちであっても、病に苦しみ、悲しみを伴う死にも襲われます。ルダの教会も、ヨッパの教会もそれを教会そのものの悩みとして共に担ったことでしょう。
 悩みに出会う教会の姿は私たちの教会の姿でもあるのです。このことは、聖書の中にもありますし私たちも理解できないことではありません。私たちの教会も、また、クリスチャンであっても、仲間の病が重ければ、あるいは、死と対峙すれば、悲しむことを知っています。
 しかし、それに続くペテロの言葉はなんと力強いことでしょうか。はたして、このペテロの言葉は私たちの言葉となるのでしょうか。私たちはキリストの力の下にあって、すべての困難に打ち勝つことが本当にできるのでしょうか。このキリストの支配が今日の教会においてはどのように見えてくるのでしょうか。
 ペテロを生かしているのは、いつでもどこでも、好きなときに奇跡を行うことができるとか、その奇跡を行う技術ではなく、彼の信仰の姿勢、祈りの姿ではないでしょうか。励ましてくださる聖霊に対しての希望や、信頼がなければ、このペテロの歩みを継承することは不可能です。
 その聖霊の働くところ、イエスこそ「癒しと命を与える神」であるとの信仰が生まれます。困難な中にあってもなお、イエスこそ「癒しと命を与える神」であることをいつも覚え続けながら、信仰生活を全うしたいと思います。