ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2002年3月]を短くまとめてのせています。

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2002年 3月31(日) 『あの方はよみがえられた』 マルコ16:1-8

 イースターおめでとうございます。
私たちクリスチャンの聖日は日曜日です。それは、イエス様がよみがえった日曜日を記念して、この週の初めの日に弟子たちが集まることを始めたことに由来しています。確かに、このイースターは、主イエス様の復活を特に覚える日であるといいましたが、毎週、日曜日は、イエス様の復活を覚えて集まるというのが私たちクリスチャンなのです。復活を覚え、感謝するということを毎週、覚えて参りたいと思います。
 それまでありえなかったほどに異常なことが起きました。信じ従っていた、数少ない女性たちでさえ震え上がるほどの恐ろしくも、すばらしいことが起こりました。それを御使いの言葉を通して聖書の著者は、ストレートに「あの方はよみがえられました。」と告げています。
 私たちは、この復活を驚きと喜びをもって受け入れることができるでしょうか。また、この復活を深く、自分のもの、自分のためのこととして受け止められるでしょうか。私たち人間は様々な悩みや苦しみを持っています。そして、私たち人間は、最後にはどうしようもない「死」という問題があります。これに対して、いつも死に打ち勝ったイエス様の復活への思いをもって歩めるならば幸いです。そして復活したイエス様は、再びこられ、そのときには、私たちのあらゆる問題を解決し、救いを完成して下さるのです。
 「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9:28,29)

2002年 3月24(日) 『神が見捨てた者』 マルコ15:21-41(扱うのは16-47)

 イエス様はこの世界での、その生涯を4つの福音書で残され、ましたが最後の3年間の記事がほとんどです。そして十字架にかかるまでの最後の一週間に、その福音書の3分の1が費やされています。
 イエス・キリストというお方を考えるときに、その十字架に焦点をおいて考えなくてはなりません。十字架の上で、イエス様は「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれました。父なる神様と1つになって生きてきたお方が「神に見捨てられる」者になるという体験をされました。神様がご自分の一人子が十字架にかかってあざけられ、苦しまれ、そして死にゆくそのとき、助けの手をさしのべませんでした。
 ここには、深い意味が隠されています。それは、神の御子である主イエスが、皆さんお一人お一人のため、実は、醜い罪の中にある我々に代って、罪に対する神のさばきを受けられたことを意味するのです。この世の罪の重荷を背負い、神様ご自身である方が罪人と全く等しくなってくださったその時、イエスはただ「見捨てられた感じ」としてではなく、この時、現実に神様に見捨てられなければならなかったのです。もし、イエス様が神様から見捨てられなければ、私たちが見捨てられていたのです。
 イエス様は私たちが死ななくてはならなかったその身代わりとして死に、私たちが見捨てられなければならなかったその身代わりとして見捨てられたのです。
 私たちは、その痛み、苦しみ、辱めをことあるごとに思い返しながら歩みたいと思います。私たちは、クリスチャンとして、このお方とともにいつも歩んでいられるように、過ごせるならば幸いです。

2002年 3月17(日) 『クリスチャンと呼ばれる者』 使徒の働き11:19-30 

 26節には「キリスト者と呼ばれるようになった。」とあります。大事なことは、クリスチャンと名乗ったことではなく、クリスチャンといわれるようになった、ほかの人々からクリスチャンと呼ばれるようになったということです。おそらく彼らは、とても敬虔な群れであったのでしょう。
 しかし敬虔さで言えば、ユダヤ人や、他の宗教もそうかもしれません。クリスチャンと呼ばれる者たちにあったのは何でしょうか。
 それは、異邦人に古いユダヤ的な律法の行為を強要することをせずに、「心を堅く保」つことと「主にとどまっている」ことをを中心におく群れでした。また信仰が一致した群れ、支えあう群れ、交わりあう群れ、福音によって、新しい世界観、新しい人間像を持つ群れでした。それは、喜び、平安、また信仰、そして愛の人たちでありました。
 私たちは、クリスチャンです。よく「クリスチャンみたい」といわれる方もおられるでしょう。またクリスチャンでなくても「クリスチャンのようだ」といわれる方もいらっしゃいます。私たちも敬虔でなくてはならないかもしれません。それは世的な判断も入りますが、「地の塩、世の光」として、「キリストの香り」を放つものであるかもしれません。そしてそれは同時にキリストを硬く保つゆえにこの世的には、頑固だといわれるかもしれません。
 しかし、今日、聖書が語る、私たちクリスチャンの本質というのは、「心を堅く保」つことと「主にとどまっている」ことをを中心におく群れ、信仰が一致した群れ、支えあう群れ、交わりあう群れ、福音によって、新しい世界観、新しい人間像を持つ群れ、喜びと愛の群れです。
 その本質をしっかりと持った、本当の意味でのクリスチャン、本物のキリストの教会をますます成長させていきたいと思わされます。

2002年 3月10(日) 『神のなさること』 使徒の働き11:1-18 

 「神様のなさること」は、私たちに、「なぜ」「どうして」という疑問や戸惑いをも起こさせます。人々はどうして争うのか、どうして、愛が世界を支配しないのか、なぜ、人は苦しまなくてはならないのか、なぜあんな良い人が死ななければならないのか・・・。私たちには、神様のなさることがよく分からないときがあります。いやむしろ、よく分からないことだらけです。
 しかし「神のなさること」は、人の思いや戸惑いを打ち破って前進していきます。そして、その時、人は18節にありますように、ただ「沈黙」するのみであるのかもしれません。
 まさに「神は、いのちに至る悔い改め」をすべての人にお与えになったわけですから。そしてこれからも「神のなさること」は、私たちに常に起り続けるでしょう。それは、小さなことかもしれませんし、人生に大きな打撃を与えるようなことかもしれません。しかしそれが「神のなさること」であるかぎり、私たちの思いや、人々の戸惑いを打ち破って前進していきます。時として私たちに大きな打撃を与えますが、それでも私たちにそれを妨げることもできませんし、また、ただ、黙っているだけのときもあるでしょう。
 そのような時、ただただ、神様がなさることを受け止め、それでもなお、神様に信頼して歩むよりほかにないのではないかと思います。
 それをいつも「神のなさること」に目をむけ思いをはせ、歩む歩みを、このクロスロード教会も、共にしてまいりたいと思います。ただただ、人の思いではなく、神のなさることに思いをはせる歩みは、私たちに、刺激的な喜びと同時に平安をも与えてくださることでしょう。