ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2002年4月]を短くまとめてのせています。

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2002年 4月 28(日) 『わたしが召した任務』 使徒の働き13:1-12

 この箇所は、聖書で言う「第1回の伝道旅行」の最初です。聖霊なる神様はアンテオケ教会の、中でも最も有力な2人の伝道者を「わたしのために聖別」せよと命じます。
 それは、これを読む私たちにもそれぞれに主からの任務、宣教の任務が与えられているということではないでしょうか。私たちは神様の愛によって、イエス様の十字架の犠牲によって救われたのです。ですからすべてにおいて安心して、すべての問題はイエス様により解決されるのだということを思いで日々を歩むことができるのです。このすばらしい福音を与えられたのと同時に、私たちにはイエス様のことを伝える、イエス様が歩まれたように歩む生き方も同時に与えられているのです。
 これらの使命は直接的にはパウロやバルナバに与えられたものでありますが、この聖書を受け継ぐ私たち教会、そして一人一人に与えられている、神様からの厳かな言葉であると思います。神様はこの世界が神の国となり、神様の御心の通りにされることを、この不安定に見える私たちに託しておられるのです。
 神様の言葉、「主の教え」を人々に伝えていくということ、一人一人の賜物を生かして伝えるということを喜びとすることを望んでおられるのです。教会の働きとしてその召された任務主にあって前進していくならば何と幸いではないでしょうか。

2002年 4月 21(日) 『神に栄光を帰さなかった』 使徒の働き12:20-25

 私たちは、時として、人や物が、なにか、すばらしいもの、美しいものをみると、それ自体が神のような存在としてしまうことがあります。
 教会でもこのような誘惑があります。たとえば、牧師が神になり、聖書ではなく、牧師の言葉が神のみことばになることすらあります。この現象は、互いが作り出してしまうということができるかもしれません。つまり、本人が、「自分は神である」と思い込んでしまったり、あるいは、周りがその人を「神」にしてしまうことです。
 旧約聖書においては、王の神格化、つまり王が神のようになってしまうことは、非常に固く禁じられています。王はあくまでも神様に権威を与えられたものであって、神ではないということをはっきりとさせています。旧約聖書中の歴代のそうそうたる預言者たちは、もっぱらそのために戦ったのです。
 神様は、ご自身以外の別のものに栄光、栄誉が帰されることを望まれません。私たちの歩みもまた、神に栄光を帰すものでなければならないと思わされます。クロスロード教会は独立しました。その独立もこれからも歩みも、また、クロスが祝福されて、何か偉大に見えることが起こったとしても、いつも神様に栄光を帰しつづけるものでありたいと思います。また、ますます、主のみことばがその栄光のうちに広められ、また神様がその力を豊かにあらわしてくださる、そのような教会を目指してまいりたいと思います。

2002年 4月 14(日) 『神の恵み』 使徒の働き12:12-19

 救い出されたペテロを迎えた「女中」の動転ぶりは、ペテロ救出が、教会の祈りと期待をはるかに超えた神のわざであることを物語っています。
 教会も弟子たちもペテロの救いのために、当然、信じて、祈っていたわけですが信じられないという反応でした。自分たちの祈りが聞かれたことが信じられないのです。祈りへの神様の応答は、私たちが考える以上のことであることがしばしばです。
 私たちは、神様の恵みをどのようにとらえているでしょうか。今日の箇所から神様の恵みに関して、三つのことを学びたいと思います。
 1、すべてが恵みである:神様は、奇跡的な恵みを表してくださいました。しかし、使徒の一人であるヤコブが殺されたことも事実です。神様はその御心の通りにことを行い、すべてに関して私たちに恵みを施そうとされているのです。
 2、度を越えている:神様の恵みは、私たちが考えるような「神様の恵み」の枠を持っていません。ですから、信じられないようなこともあります。しかし神様はそのような恵みを用意されているのです。
 3、恵みへの謙虚さ:度を越えた神様の恵みは、いいときは感謝なのですが、とまどいや神様への不信を起こすこともあります。すべてが恵みなのですから、それを感謝すると共に、信じられないような恵みにも感謝をしたいと思います。
 私たちの神様、このクロスロード教会の主であるかたは、恵みが豊かで限りがなく、また私たちを愛し祝福しようとしてくださっています。私たちもそのような神様の恵みにいつも感謝して、信頼して、期待して歩みたいと思います。

2002年 4月 7(日) 『神の救出』 使徒12:1-11

 「神様の救い」は時機を逸しません。救い出されたペテロにはすべてが「現実の事」とは思えなかったのでしょう。人間のどのような介入も助力もなしに、ただ神様だけが動かれた。神様が御使いを使ってその御手を伸ばされました。
みなさんにもそういう経験がないでしょうか。自分でも信じられないようなことが平気で起こるようなそんなことです。もちろん悪いこともあるでしょうが、むしろ、「助かった」と言うようなときです。
そのような時、偶然だと思わないでください。それは間違いなく神様が導いて、助け出してくださったときなのです。いつも、神様はあなたをご覧になり、御手を添えてくださっています。
大変だな、苦闘中だなと思うときも、必ず神様は助けるときを待っているのです。御使いが離れ去った後、ペテロは我に返ります。11節「今、確かにわかった」。この言葉は、自分を救ったのは、「主」すなわちキリストであるとはっきりと、揺るがない確信を持って知ったのでした。目前に迫った大きな危機から、主が救い出して下さったという事実は、ペテロのその後の活動に新しい意味を与えなかったわけはありません。
皆さんお一人お一人の人生の中にあっても、教会においても、チャンスもありますが、絶対絶命の大ピンチもあります。
しかし、私たちが神様のことを忘れているときも神様は、その足を導いてくださっていると知るべきです。そしてすべての災いから助け出してくださいます。ですから、神様に信頼して祈り求める歩みをされるならば、すばらしく豊かな平安を持つ幸いにあずかれるのです。