ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2002年6月]を短くまとめてのせています。

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2002年 6月30(日) 『二つに一つ』 使徒の働き14:1-7

 題を見て、気が付かれた方は、もう、わかっていらっしゃるかもしれません。それは、神の言葉が伝えられるところには分裂が起こるということです。一方はユダヤ人に味方し、一方は使徒に味方したのです。
 このイコニオムでは「ユダヤ人たちの言葉に従う」か、それとも、「神様の言葉に従う」かで、はっきりと二分されたのです。
 神様の言葉は、絶対的な真理であると私たちは知っています。ですから、中立はありえません。その人がどんな生活をしているか、どのような背景で育ったか、どんな性格かということとは、関係なく、完全に信じるか信じないか、従うのか従わないかに二分されるということです。
 トラクト配布をするときに気がつくかもしれませんが、二つの反応があるのは事実です。
 私たちがこの働きをするとき、無視されることも、過激に反対されることも承知の上です。でも、その中で、必ず、目に留め、それを受け入れる方がいるということもまた事実なのです。そしてそれは目に見えない神様の目に見える導き、神様の働きであるのです。
 すでにクリスチャンとされている私たちの生き方も、信じるものとして生きるか、信じないものとして生きるかの二つに一つなのです。すでにクリスチャンとされていながら、中立を歩もうとすることは、むしろ、神様の言葉に反した歩みであると言えるかもしれません。そのような誘惑があることも事実です。いつも二つに一つ正しく選択しているかを点検しながら、信じる道をまっすぐに歩めるならば幸いです。

2002年 6月16(日) 『喜びと聖霊』 使徒の働き13:44-52

 パウロの説教を聴いた人たちの反応は二種類ありました。一つは喜びを持って受け入れ、福音を歓迎しました。もう一つは妬みを抱くとう反応でした。ますます心かたくなにしたユダヤ人は実力行使に出ます。パウロとバルナバを町から追放します。こうして、伝道者が追放され、アンテオケでの宣教活動は終わりを告げました。しかし残ったものがありました。それが「喜びと聖霊」でした。
 それでは、なぜ、伝道者たちが去ったのにもかかわらず、「喜びと聖霊に満たされて」いたのでしょうか。
 それは彼らが、神様の導きに信頼をおいて、見えない方に目を留めていたからであるでしょう。そうすることによって「喜びと聖霊に満たされる」ことができるからです。信仰と言うのは、これがこうだから信じるとか、ここまで分かったから受け入れるというものではなさそうです。一つの事柄が起こると、いくつもの反応がありますが、私たちは目に見えないものを信じる信仰を表すという反応をしたいものです。
 皆さんはどういうときに幸福を感じるでしょうか。色々な答えがあっていいと思います。しかし、はかない喜びではなく、変わることのない本当の喜び、見えない方、変わることのない神様に目を留め、信頼をおいて歩むことの喜びを、皆さんの喜びに加えてください。そして最後には見えない方に、完全な信頼を置いて、「聖霊と喜び」に満たされて歩むものでありたいと思います。私たちの教会もただ見えない方に信頼をおいて歩んで生きたいと願うものです。<Uコリント4:18>

2002年 6月 9(日) 『解放』 使徒の働き13:38-43

 そしてパウロの説教の最後の部分です。
38、39説です。モーセの律法というのはモーセの十戒を初めとして沢山の法律、律法のことです。これをしてはいけませんよ、これをしなければいけませんよ、というものでした。しかし、そういうことに縛られていては、自由ではない、解放されているとは言えない、律法を守っていても罪から解放されて、義となることはできない、救われることはない、と言うことになります。
 「罪人ですか?」という質問に、おそらく「はい」と「いいえ」が分かれるでしょう。それは、法律に触れるようなことはしていないという意味では、罪を犯していないという人は沢山いるからです。しかし「完全な人ですか?」という質問はどうでしょうか。
 しかし本当の意味で、この質問に、「完全な人」と言える人はいないでしょう。それは法律を守っているとか、決まりを破ったことがないとかそういうことで、自分が誰からも責められることがない、何の咎めもない、非の打ち所のない、ということにはならないのです。 しかし、それらのどうしようもない不完全さの中にあって、あるいは、聖書的に言うと、罪の中にあってどうしようもない状態である私たちが、完全な神様よって、解放される、義と認められる、罪が許される。それが、聖書のすばらしい救いの話なのだというのです。到底信じられないようなこと、それが福音なのです。この福音に与るものとなりたい、またその中に生き続けてまいりたいと願います。

2002年 6月 2(日) 『朽ちないもの』 使徒の働き13:26-37

 どうして、イエス様は復活したのでしょう。32節をみますとこの救い主、つまりメシヤの復活こそが、過去と現在の神の民への「約束」であったからであることがわかります。そしてこれは、私たちにとって「福音」つまり、最高のニュースであったのです。
 33節以下には、詩2篇を初め、数々の旧約証言が、現実に起こったことを予告していたのでした。そしてこれらの旧約聖書の引用は、「朽ち果てることのないメシヤ」ということが述べられていたのでした。偉大な王様であるダビデも死んで朽ち果てました。
 私たちの世界で、一つのことをのぞいて、あらゆることに絶対はありえません。その「唯一の絶対」それは、私たちが死ぬということです。しかしイエス様だけが朽ちないものとなりました。朽ちない無限の存在が、朽ちる有限の存在に入ってきてくださったのです。
 それゆえに今度は、真実なる神様が、私たちをも朽ちない存在、つまり永遠の命を「これらを信じるものには与える」と約束してくださいました。イエス様はその最初の証拠となってくださったのです。ですから私たちも永遠の命を信じること、私達も「朽ちないもの」としてくださっていることが分かるのです。その約束の歩みを一歩一歩、信じて歩むならば、なんと幸いなことでしょう。
 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)